<6.Polariscope(偏光性)>
煌々と白い月の光が知の都に降り注ぐ。シャーレアンの町外れで、静かな夜の空気に頬を冷やしながら見上げた空は晴れ渡っていた。明日がアーテリスの命運を賭けた最後の日になるかもしれないというのに、ヴァリの心は驚くほど凪いでいる。
不安はあるが恐れはない。やるべき事はもう決まっている。ただ仲間を信じて、スフェンを信じて進めばいいだけだ。
腕の中にいるスフェンの存在をもっと感じたくてさらに抱き締める力を強くすると、苦しいと尻尾で足を叩かれた。それでも大人しく自分の腕に収まってくれているのが無性に嬉しい。背中に回された手が温かくて、思わず頬を弛めた。
(幸せだな……)
仲間達と夕食を食べた後、誰にも告げずにバルデシオン分館を出たら、同じように外の空気を吸っていたらしいスフェンと出会った。ちょうど彼と話がしたいなと考えていたところだったので、もしかしたら同じように思っていてくれたのではないかと内心で喜んだ。
シャーレアンには雪がちらつき、手が悴むほどに寒い。息を白くさせたスフェンはヴァリを見つめると、鼻の頭を少し赤く染めながら黙ってその隣に並んだ。二人はそのまま沈思の森を通り抜け、魔法大学の裏手にひっそりと置かれたベンチに座って、取り留めのない話に花を咲かせた。
仲間達の事、暁の血盟の事、終末が終わってからの事。毎日一緒にいるのに不思議といくらでも話せた。今まで言葉に出来なかった想いが溢れて、ヴァリが柄にもなく自分の気持ちをスフェンに伝えるほどに。愛しているも、ずっと隣にいたいも、そこでようやくちゃんと言葉にできた。
(さっきのスフィ可愛かったな……)
ふわふわとした耳に鼻先を埋めながら、スフェンの表情を思い出しては口角が自然と上がってくる。それは驚いたような、嬉しいような、泣き出しそうな、それでいて満ち足りた笑顔だった。月光に照らされた微笑みと、その先に続いた自分も同じ気持ちだという言葉を、ヴァリは生涯忘れないだろう。
これからもスフェンの隣にいたい。ずっとその一言を言うのが怖かった。自分に自信がなくて、伝えることが出来ずにいたのだ。しかし、心のどこかでどうしても伝えたいと思っていたのかもしれない。すると、固い結び目がするすると解けるようにヴァリは想いを口にしていた。
そうしてどちらからともなく手を伸ばし、月と星が広がる空の下、時が経つのも忘れて相手の存在を確かめ合った。
抱き締める体から呼吸と心音が伝わってくる。ヴァリは自分でもありきたりな表現だと思ったが、この瞬間がもっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。
「ん、そろそろ……」
「……もうちょっと駄目?」
「お前いつももうちょっとが長いんだよ。……今日は駄目だ」
苦笑交じりにスフェンが小突くので、仕方がないとヴァリは腕から彼を解放した。
ヴァリが立ち上がると、スフェンは座ったまま高い位置にある顔を見上げる。
「先に行っててくれ。……少しだけ、一人になりたい」
「……うん、分かった。体冷えちゃうから、なるべく早く戻ってね」
遠ざかるヴァリに、スフェンは片手を上げて応えた。
世界が絶望に沈もうとしている。しかしそんな状況ですら、ヴァリの心には希望が灯っていた。今も彼の進む道を「星」が照らしてくれている。その光を見失わない限り、どんなに心折れそうな絶体絶命の危機も必ず乗り越えられるだろう。今回の旅を通して、よりその確信は強くなった。
「少しは届いたかな……」
満天の空に手を翳し、彼方の光を掴むように握り締める。実際は、ヴァリが思い込んでいたよりも近くにその光はあったようだ。
「ふふ、スフィが帰ってきたらナップルームにも寄ろうかな」
自分の部屋で寝ろと怒られるかもしれないが、多少無理やり一人用のベッドに体を押し込めば二人で寝られるのではないだろうか。緊迫した夜になるかと思っていたが、ヴァリの心は少し浮足立っていた。
しかし、すぐにヴァリは表情を曇らせる。思い出したようにポケットに手を突っ込んで、中から小さなケースを取り出すと溜め息を吐いた。
(……でもこれ、どうしようかな。結局また渡すタイミングがなかった……)
それはスフェンへの贈り物なのだが、もうずっと長い間ヴァリの手元にあった。明日渡そう、今度渡そうとずるずる先延ばししているうちに、とうとう今日まで持ち続けている。
「ん……?」
悩みながら歩いていると、バルデシオン分館に向かって橋を渡るあたりで、向かいから船乗り風のミッドランダー男性が一人で歩いてくるのが見えた。何やらぶつぶつと独り言を呟いていて、危なげな雰囲気だ。このまま真っすぐ進むと、ちょうど分館の前ですれ違うことになる。
(なんだろう……嫌な感じがするな)
経験からくる勘のようなものだった。自分が言えたことでもないが、男はこんな夜更けにどこへ向かうのだろうか。戻って来るスフェンと鉢合わせしたらなんとなくいけないような気がして、ヴァリは目を合わせないようにしながら男の様子に注意を払った。
「うっ……」
その時だ。ヴァリの頭に鋭い痛みが走り、視界が歪む。――超える力が発動したのだ。
*
ヴァリの思考に、男の記憶が流れ込んでくる。
森都から外れた黒衣森の中。点在する集落からもやや離れた場所に、少年の家はあった。家族は酒浸りの父と、父の言いなりになっている母との三人暮らしで、父は家族に冷たく愛情の欠片もない。猟師をしているようだったが、収入は少なく、すぐ酒代に換えてしまうこともあって家計は常に貧しい。ときどき父は些細な原因で少年に辛く当たる事もあった。そうすると母は、「お前が悪いのだから謝りなさい」と彼を叱った。
毎日自分の存在そのものを否定されている気分だった。
(理不尽だ。俺は何も悪い事はしていない。貧乏なのも、森の住人達から村八分のような扱いを受けているのも、親父のせいだ)
少年は知っていた。父が昔、人を殺したと噂されている事実を。それが原因で、周囲に厭われて自分達が辺鄙な場所で暮らさなければならないことも、全て知っていた。
彼は日常から怒りを抱き続けていた。そしていつ爆発してしまうかも分からない時限式の爆弾のような感情は、少年が大きくなるにつれてリミットまでの時間を加速させる。
青年になる頃。初めて父親を殴った。一度歯止めが効かなくなったらもう止まらない。積もった怒りと恨みを拳に乗せて、青年は父親を殴り続けた。腰を抜かして悲鳴を上げる母親の声が鬱陶しい。
彼はそれきり親を捨てて、独りで生きることにした。自分を押さえつけてくる存在だった父親を、いとも簡単にねじ伏せられたその日。彼の人生は変わってしまった。
働くようになって、すぐに自分の力は金になるのだと実感した。剣を手にして傭兵まがいの仕事をしながら、あちこちを転々としていく。けれども組織のようなグループに長く属せなくて、最終的に冒険者に落ち着いた。
ウルダハ、リムサ・ロミンサと流れ、結局は故郷に近いグリダニアに戻ってくると、それからは単独で受注できる依頼をギルドから斡旋してもらい、細々と暮らしている。稼ぎが多くないのは仕方がなかった。何せ報酬の多い大型の案件は、複数人で組んでいる者達でなければ受けられない。
(せめてもう一人いればな……)
カーラインカフェで他の同業者達を眺めながら酒を舐める。青年は他人と上手く付き合う自信なんてとうに失っていた。何度か他の冒険者と組んだ経験はあったが、いずれも小さな衝突が理由で解散している。その度に冷徹な父親を思い出して、男は自らの生まれを憎んだ。
(適当に、後腐れなさそうな奴いねえかな)
一人で活動している冒険者を探してカフェの中を見回す。あいつは性格が悪そうだ、あいつは弱そうだ、と失礼な感想を抱きながら一人ひとり視線を移していくと、ちょうど良さそうなミコッテ族の青年に目が留まった。駆け出しから少し脱し始めているくらいだろうか。装備もほどほどに整えていて、落ち着いた雰囲気がある。白い耳と尻尾が特徴的な同年代の冒険者だ。
(稼ぎが良くなりゃパーティなんていつ解消してもいい。利用させてもらうか……)
ささくれた気持ちのままギルドボードの前に立っていたミコッテの冒険者に声をかける。どうなるかと思ったが、運良く承諾の返事がもらえたので、そこからは二人でしばらく仕事を続けた。
結果として青年の選択は正しかった。「スフェン」と名乗った年若い槍術士は想像していたよりも腕が立ち、力を合わせてより難しい依頼を何件もこなせるようになった。少しぶっきらぼうなところもあるが、それはお互い様だ。それよりも、無駄口を叩かず、他人に対して必要以上に高圧的な態度も取らない性格が気に入っている。慣れてくると適度に冗談も言うようになって、青年は毎日が楽しいと思い始めていた。
(何でスフェンとは上手くやれてるんだろうな……)
宿屋のベッドで横になりながら、これまで一度も長続きしなかった人間関係について青年は考えた。
それまで一緒に仕事をした冒険者達は、青年に学がない事を遠回しに揶揄したり、粗野な振る舞いを見下してくる者が多かった。
(でもあいつは俺のこと頭っから否定しねえから……)
スフェンは青年の話をよく聞いた。聞いたうえで青年に非があれば容赦なく指摘し、一方で、仕事で活躍したときなどは控えめながらもうんと褒めてくれた。その度に頭の奥にこびりついている「お前が悪い」と罵る声が小さくなっていく。
二人が仕事を始めてしばらく経ったある日。いつものように森で魔物を狩っていると、悲鳴とともに傷ついた獣型の魔物が青年のすぐ近くを走り去っていった。
「スフェン、あれって賞金首のモブじゃ……!」
大型の狼に似た見た目。間違いない、森を荒らしまわっていると噂のリスキーモブだ。かなり深手を負っているようで、魔物が通った道には血痕が点々と続いている。
「チャンスだ!あいつ俺達で仕留めようぜ!」
あの傷なら止めを刺すのは難しくない。スフェンと二人ならば容易にできるだろうと踏んで、青年は彼について来るよう合図する。頭の中は報酬の事でいっぱいだった。
しかし、スフェンは青年に見向きもせず、反対の方向へと走り出す。何でだと憤って後を追うと、彼は倒れている怪我人の元へ向かっていたようだ。風体からして冒険者だろう。恐らく、モブと戦い傷を負わせたのは彼らだ。
「何してんだよ!今ならまだ間に合う!二人で追いかけようぜ!」
青年はスフェンに詰め寄ったが、怪我人を置いてはいけない、と彼は頑なに首を横に振った。
「~~~~っ、そうかよ、横取りするようなマネはしないってか。分かった。じゃあ、俺一人で行く」
綺麗事ばかり並べ立てるスフェンに怒りが募った。同時に、裏切られたと感じる。腹が立って仕方がない。
「クソっ!」
怒りと目先の欲に目を曇らせながら、青年は単騎で魔物に迫った。だが、結果は散々なものである。もとより「二人でなら」仕留められると考えた敵だ。青年一人の力では、返り討ちに遭うなんて火を見るよりも明らかだった。
鋭い爪に背中を引き裂かれ、青年は這うほうの体で森都に帰還した。その後は一か月くらい療養のため、隠れるように治療院と宿屋を行き来てして生活した。大口叩いて突っ込んだあげくこの様では、スフェンに合わせる顔がない。
(あいつが一緒だったら勝てたのに……!)
宿屋の部屋に籠ってじっとしていると、次第に気まずい気持ちは逆恨みのような感情に変わっていく。ギルドで聞いた話では、スフェンは怪我をした冒険者達に手を貸して、森を見回っていた鬼哭隊と共にグリダニアまで送り届けたらしい。それを聞いて、さらに鬱屈した思考ばかりが膨らむ。
(今頃皆に感謝されて、さぞ気持ちいいだろうよ)
不貞腐れて寝転がってばかりいたおかげか、皮肉な事に怪我は思ったよりも早く治った。その頃には少しは気持ちも落ち着いてきて、スフェンが謝罪すればまた一緒に仕事をしようと考えていたくらいだ。
久しぶりに訪れたカーラインカフェは相変わらず冒険者で賑わっている。青年はきょろりと店内を見回した。
スフェンは良い奴だが如何せん愛想の良い方ではない。どうせまた一人で仕事をしていることだろう。この間の一件は水に流して自分の方から声をかけてやろう、とどこか尊大な心持ちで白い尻尾の持ち主を探した。
「お、いたな。スフェ……」
姿を見つけて名前を呼ぼうとした。しかし、スフェンが他の冒険者に囲まれて何やら話している様子だったので、青年の声は途端に尻すぼみに消えていく。
(何だよ……)
心のどこかで、スフェンは自分を待っていてくれると思っていた。彼にとって自分はきっと特別で、冒険者ギルドに入った瞬間こちらを見つけて、いつもの不愛想な顔で寄って来るものだとばかり考えていたのだ。
だというのに、スフェンはこちらに気付きもしないで熱心に話し込んでいる。まるで青年など最初からいなかったように。
(……馬鹿らしい)
青年はそこで踵を返した。何もかもどうでもいい。冒険者なんて今日限りで廃業してやると息巻いて、二度とグリダニアには戻らなかった。
風景が急激に変化していく。緑豊かな森都から一転して、男は船上にいた。冒険者を辞めてリムサ・ロミンサで船員として働き始め随分経つ。商船で荷物を運ぶため、東へ西へ、様々な土地へ渡る生活は男の肌に合っていた。
もう冒険者だった頃の思い出は過去として自分の中で見切りをつけている。船乗りは大変だったが、仕事を覚えてからは他のクルーとも少しずつ交流が持てて、男は順調な日々を送っていた。――だというのに。
異形の塔が出現して幾日か経った頃、今度は見たこともない獣が各地に現れ始めた。男も詳しい事情は知らなかったが、世間では霊災以上の脅威が地上を襲っているともっぱらの噂だった。
その脅威に対抗するため、男も一船員として駆り出されることになった。物資の輸送のため初めて訪れたオールド・シャーレアン。聞いた話では、ここが脅威に対抗するための最前線らしい。リムサ・ロミンサ以外にも、様々な国や地域から物資が運び込まれている。
世界の危機に人々が奔走する姿を見て、自分もその輪に入っているのだと自覚したら胸が熱くなった。誰かの役に立っているという実感が男を高揚させる。
だが、入港した知神の港に集まった人物の中に、忘れたと思っていた白い耳と尻尾を見つけて、男はたちまち顔を歪めた。
(何でスフェンがあそこに……⁉)
シャーレアンの重鎮や各国の首相陣に囲まれるスフェンを見て、男の目の前が黒く染まる。港に集まる人々の中でも、スフェンはその中心付近にいるようだった。
暗くなっていく視界の中で、白い装束を纏ったスフェンの姿は、晴天の空の下でいっそ光を帯びているようにも見える。
(何でだ⁉何で……)
薄っすらと光って見えるスフェンに向かって、男の足がふらりと前に出た。光に引き寄せられる虫のように、覚束ない足取りで人だかりに向かって歩みを進める。
嫉妬、羨望、疑問、憤怒、怨恨。蓋をしていた感情があふれ出し、男の中で混ざり合っていた。
(俺を捨てたお前が、何でそんな場所にいるんだ……⁉)
一歩、また一歩その距離が近づく。あの日と同じように、スフェンは男の存在に気付いていない。隣に立つ仲間の男と思しきエレゼンと視線を合わせ、各国の協力に瞳を輝かせている。
男はなおもスフェンに近づこうとしたが、彼の友人知人の集団に阻まれて、その眼前に立つのは叶わなかった。
その後聞いて回ったところ、スフェンは英雄と持て囃される冒険者集団の長なのだという。彼と仲間達の功績を一つ聞く度、心の中にどす黒い靄が広がっていった。妬ましい、恨めしい。世界の危機なんて、もうどうでもいい。そう思って、気付いたときには船倉を飛び出していた。
体を突き動かす衝動が止められない。男には計画があるわけでも、スフェンに言いたい事があるわけでもなかった。ましてや、懐に忍ばせた小さくも鋭いナイフをどう使うかなんて、深く考えてもいない。
*
「うっ……」
ヴァリが超える力による長い過去視から戻ると、さして現実の時間経過はないようだった。ただ、港側から歩いてきた男は分館前に到着しており、灯りの漏れる入口を虚ろな目で見ている。
(あいつだ……!)
見覚えのある顔を確認して、驚きよりも先に、普段あまり感じない嫌悪の感情が湧き上がる。その理由は今しがた見た過去の中に数えるほどあった。
先程まで温まっていた心が、急速に冷えていくのを感じる。自分にこのような気持ちがあったのだと知るには、なんともタイミングの悪い夜だった。
ヴァリは努めて穏やかに男へ声をかける。が、出てきたのは思っていたよりも随分と平坦な声だった。
「スフィに何か用?」
「な、なんだお前っ……」
男はヴァリの存在に気付いていなかったらしく、闇に溶け込むよう佇む黒衣の戦士に話しかけられ驚いている。
「スフィに……スフェンに用があったんじゃないの」
「何でそれをっ……あっ、お前港にいた……」
男がハッと息を飲んだ。
ヴァリは静かに男との距離を詰める。足を踏み出す毎に、着込んだ鎧が擦れ合う金属音が静かな夜に響いた。
「くっ、来るなよっ」
じりじりと追い詰められるように男が引いていく。
「帰ってくれないかな。オレはどうしても君をスフィに会わせたくない」
口調だけは落ち着いているが、ヴァリの全身から発されている威圧感は隠しようもない。男はヴァリが自分に敵対心を抱いているのだと察すると、怯えた態度から一転して強硬な姿勢を見せた。
「何でお前にそんなこと指図されなきゃなんねえんだよっ」
「何で……?……当然でしょ、こんな物懐に入れて」
ヴァリは数歩の距離をいっきに詰めると、男の腕を捻り上げ服の下に隠し持っていたナイフを取り上げた。
「ぐっ!」
慌てて身を捩り暴れる男の腕を解放すると、彼によく見えるようナイフ地面に落としてから、靴底で真っ二つにへし折った。
「帰って。…………二度とスフィの前に現れるな」
男の怯えた表情を見下ろしてヴァリは小さく呟いた。
「あれ、先に戻ったんじゃなかったのか」
小雪が降る中、スフェンがバルデシオン分館に向かって暗い夜道を歩いていると、見知った大きな影が辻に立っていることに気が付いた。闇と同化しそうな黒装束のせいで一瞬身を固くしたが、夜目にも金髪だと分かったので、すぐにヴァリが待っていたのだと警戒を解く。
ヴァリはスフェンが声をかけると手を上げて応えたが、何故かしきりに目を擦っている。
「どうしたんだ?」
「ちょっと眩しいような気がして……」
「は?」
「あ、ううん。何でもない。気にしないで」
誤魔化すようにパッと笑みを浮かべるヴァリに、スフェンは腕組みしながら疑わしげな視線を投げて寄越した。一人にしろと言ったのに、わざわざ戻って来たのも怪しい。
「……お前、なんかあったか」
「え、何もないよ?やっぱり一緒に帰りたくなっちゃったから、ここで待ってただけ」
「ふーん、大した距離でもないのにな……」
「いいのいいの」
ヴァリは訝しむスフェンを丸め込みながら、人目がないのをいいことに彼の腰を抱いて引き寄せた。バルデシオン分館に戻るまでの短い距離を寄り添って歩く。冷えた体に、互いの体温が染み入るようだった。
「スフィ」
「ん?」
「……オレはスフィのこと信じてるから」
ヴァリはスフェンを覗き込むと、どこか神妙な声色でそう言った。ウルティマ・トゥーレに旅立つ前夜なのだ。彼も何か思うところがあるのかもしれないと結論づけて、返すようにスフェンが告げる。
「……ああ、俺も信じてる」
笑みを深めたヴァリは、スフェンの冷たくなった頬に唇を寄せた。
バルデシオン分館のロビーに備えられたダストボックスの中で、刃の折れたナイフが鈍く光っている。たくさんの願いと祈りを乗せ、果ての宙に向けて旅立つ彼らには必要のないものだった。