<5.Transparency(透明度)>
禍々しいまでに赤い空から、絶望が降り注いでいる。どこからともなく聞こえる獣の咆哮が恐怖を助長させ、恐れに凍りついた心が人々の逃げる足をもつれさせた。
終末が襲来したサベネア島は未曽有の狂乱に包まれている。パーラカの里へ救援に向かったスフェン達が道中で目の当たりにした光景は、正しく凄惨そのものであった。逃げ惑う島民を獣が容赦なくその牙にかける。人間は圧倒的な力に蹂躙され、なす術もない。増え続ける獣に星戦士団の対処も追いつかず、スフェン達は避難民を誘導しながらパーラカの里へと入った。
その後は里にいたマトシャの導きで、逃げ遅れた人々をプルシャ寺院まで探しにゆきこれは無事保護できたのだが、未だ取り残された周辺地域の村人は多い。そこで、衆園の森に分け入り生存者を捜索する班と、パーラカの里で救護活動に当たる班に分けることになった。
スフェン、ウナギ、ミナミ、ハンナは救護班として里に残り、ヴァリ、エドヴァルド、ソバ、ロマリリスは捜索班として隊を編成。後者は一定時間周囲の哨戒を兼ねつつ見回ったあと、救護班に合流する方針とした。
「そっちは任せた。あんまり無茶するなよ」
「うん。怪我人はよろしく」
送り出すスフェンに対して、ヴァリは神妙に頷いた。癒し手含め仲間達からは、自分の身を盾にするような方法はくれぐれも最後の手段にしろと、常日頃から言われ続けている。心配をかける戦い方は慎もうとヴァリも肝に銘じていた。
「大丈夫。私達が見てるもの」
ロマリリスが妖艶に微笑む。こんな時でも普段と変わらない彼女の姿に、スフェンは知らず入っていた肩の力を抜いた。
*
森の中は鬱蒼とした緑の匂いを塗り潰すように血臭が漂っていた。ヴァリ達は岩陰や木の間に隠れていた避難民を見つけると、近くの星戦士団に預けてさらに奥へと捜索を続ける。だが残念な事に、助けられなかった命の方が多いのが現実だった。
事切れた遺体が川上から流れていくのを横目に、マーヤーの幻泉方面を目指して南下して行く。生存者の話では、獣に追い立てられてこちらに逃げた一団がいたらしい。泉の周りには小型の獣がうろついていたので、二人の魔道士による範囲魔法でまとめて焼き払った。これでしばらくは捜索に集中できるだろう。
「うっ……」
不意に、エドヴァルドが足を止めて呻いた。彼の視線の先には、泉の中央に建てられた巨大なムリガ神の像が聳えている。その額の部分に、人が倒れていた。飛行型の獣に空中から落とされたのだろうか、叩きつけられるように張り付いた体からは夥しい量の血液が流れ、泉に注ぎ込まれている。遠目から見ても、恐怖に引きつって見開かれた瞳が空を見ているのが分かった。
「惨い……」
ソバがくぐもった声で呟く。四人の間に重苦しい空気が流れた。
「……周囲に生存者がいないか探そう。一人でも多く、里に連れ帰る」
ヴァリが大剣を背負い直して言うと、エドヴァルド達は無言のまま頷いた。
「ひ、ひいっ」
するとその時、か細い悲鳴が彼らの耳に届いた。
「あっちだ!」
泉の裏手から聞こえた声を頼りに駆け出す。建物の角を曲がると、すぐに獣に襲われている島民を発見した。
「はっ!」
体に無数の口がついた獣の横からエドヴァルドが飛び蹴りを入れると、相手は大きく吹き飛んだ。畳みかけるように二つの火球が炸裂し、黒焦げになって動かなくなったのを確認してからヴァリは生存者のもとに駆け寄った。
「怪我は?」
「か、掠り傷程度だ……は、たす、助かった……」
アウラ族の男性は動悸を押さえるように胸に手を当て、息を整えている。だが、弾かれたように顔を上げると自分の後ろを振り返った。
「い、妹が……!妹が酷い怪我をしているんだ!まだ息があって、こっちに……!」
男の指差す方向には、大きな葉の影に隠されて少女が横たわっていた。ヴァリが状態を確認するために近寄ると、すぐに血生臭い臭いが鼻をついて顔を顰める。
少女はすでに青白い顔をしていて、ぴくりとも動かない。抜けた牙が内蔵を貫通している。素人目に見ても致命傷であった。傷の深さからして、ほとんど即死だ。
「……」
立ち尽くすヴァリの背を見て、男が項垂れる。
「やっぱり……駄目か……チクショウ…………チクショウっ!」
無念を込めた拳を地面に叩きつけて男が慟哭する。怒りに染まっていく表情は、今にも絶望に変わるのではないかと思われた。
その様子を見て、ロマリリスが男の肩を掴んで喝を入れる。今は下手な慰めよりも、少しでも彼を奮い立たせた方が良い。
「しっかりなさい、貴方は生きなきゃ駄目。絶望すれば獣になる……貴方も、このままでは獣になってしまうわ」
妹を襲った存在と同じになるのかと訴えれば、男は歯を食いしばって続く言葉を飲み込んだ。
「……ぐっ、せめて、妹の体を……」
周囲の獣は撃退したが、森は決して安全とは言えない。その状況で、少女を抱えて里に戻るのはリスクでしかなかった。
現状できる最大限の対処をヴァリが冷静に告げる。
「……この場所に隠そう。……奴らは生きている人間を狙ってる。奥に隠しておけば、わざわざ手出しをしてこないはずだ。森が安全になったら、迎えに来てあげてほしい」
「そうか……分かったよ……」
疲れを滲ませた男はエドヴァルドに肩を貸された状態でのろのろと立ち上がると、一度妹の方を振り返ってから里に向かって歩き出した。
「エドとソバは彼を連れて行って。オレとロマリリスでここはやっておく」
「すぐ追いついて来なよ」
帽子の下から覗く眼に頷いて見せると、二人は男を連れて木々の向こうに消えて行った。
「……ぁ」
彼らが完全に見えなくなったそのとき。ヴァリの後ろから消えそうな息遣いが聞こえて、まさかと思い勢い良く振り向いた。
「……ひゅ……」
ヴァリは目を疑った。息を引き取ったかと思われた少女が、薄っすらと瞼を開けて赤い空を虚ろな瞳で見上げている。
「……!」
しかし、少女に駆け寄ろうとしたヴァリをロマリリスが制した。
「死の直前の、反射のようなものよ」
どうあっても助からない。一瞬の希望が、厳しい現実に打ち砕かれる。
「……坊や達が行った後で、良かったかもしれないわね」
鎮痛な面持ちでそう言ったロマリリスは、少女を隠すため、努めて淡々と周囲に落ちている葉を集め始めた。
「…………」
こんな時、スフェンならばどうしたのだろう。ふと、ヴァリの脳裏にそのような考えが浮かんで消えた。
その時だ。やるせない気持ちを抱えたまま少女を見下ろしていたヴァリは、彼女の体から徐々に黒い靄が立ち上っているのを見つけてしまう。
「獣化が……!」
驚愕に固まっている間にも靄は広がっていく。もはやはっきりとした意識などないだろうに、それでも魂に刻まれてしまった痛みと苦しみが少女を苛んでいる。死の淵にあって、なお絶望するほどに。
「ヴァリ!」
ロマリリスも少女の様子に気付いて杖を構えた。獣になってしまえば、討伐する他ない。それを彼女も分かっているのだ。
ヤ・シュトラは、獣になると肉体に宿っていたエーテルが消滅すると言っていた。それはこの世から完全に消える事と同義である。このままでは、少女は人としての死すら迎えられず、星海にも還れない。
「……………………」
長い沈黙の後、ヴァリは大剣を背から抜くと、靄に包まれ、されど動くことのない少女の喉元に切っ先を向けた。
現状できる最善の対処を。それが、ヴァリの選択した答えだった。
*
「もっと湯沸かせ!軽傷の「緑」はあっちだ!「黄色」はミナミのところへ!「赤」は俺が診る!」
里中にスフェンの叱咤が飛ぶ。そこは一秒を争う医療の戦場だった。
「お湯!お湯持ってきた!」
ウナギが桶いっぱいの熱湯を配って歩く。その隣では、ハンナが軽傷の患者へ手当を施していた。
「ありがと、うなちゃん」
「ううん、次もっと運んでくるね」
腕に緑の糸を巻いた患者達が彼女らの担当だ。この糸は村人から借りた織り糸をスフェンが巻いたもので、怪我人の重症度を表している。
彼らが到着したとき、パーラカの里は避難民を含めてたくさんの怪我人ですでに溢れていた。これに対してスフェンがまず行ったのが、賢学を学ぶ中で得た知識を活用したトリアージ、すなわち治療優先度の選定だ。ミナミ達に判断基準を伝え、重症度別に赤・黄色・緑・黒の糸を患者の腕に巻いていった。緑をハンナとウナギ、黄色をミナミ、赤をスフェンが重点的に担当するよう分担を決め、それぞれが対応に当たっている。
「よし、応急処置はできた。糸を黄色に変えて、次の患者を」
「はいっ」
村人の補佐を受けながら、スフェンは重傷者に治癒を施していく。魔力が尽きればエーテル薬を飲んで回復させつつ、医学療法による治療を行った。村に到着してからの初動が迅速だったこともあり、命の危機にあった患者の処置は概ね完了している。
(早い……)
スフェンから少し離れた場所で中程度の患者に対応していたミナミは、短期間で成長している彼の手際に驚きを隠せなかった。
ハーデスを討ち、クリスタリウムに戻ってからだろうか。スフェンはそれまで片手間に手を付けていた治療師の術を本格的に学び始めた。最初は幻術を、次第に占術や指揮と治療の両立を為す軍学、そして賢術を知ってからは、これを修めるべく励んでいる。
以前、スフェンが勉強しているところに偶然居合わせたとき、彼の鬼気迫るような真剣さにミナミは息を飲んだ。没頭するほど賢学の指南書や医学書を読み込み、最初は声をかけても気付かないほどだった。
スフェンにどんな心情の変化があったのかは、ミナミにも正確に推し測ることは難しい。だがしかし、自分の危険を顧みない盾役の存在が大きく影響しているのは、考えるべくもないだろう。
それから実践でも何度も彼の治療師としての手腕を目の当たりにしてきた。今では槍を手にするより、賢具を操り前線に出る事の方が多いくらいだ。
一方で、未だに学びの日々は続いているようで、旅の合間にもシャーレアンで手に入れた医学書を片手に持っている姿を目にしている。あまりに遅くまで勉強をしているものだから、体を壊してはいけないと、ヴァリを始め仲間から窘められる程だった。
「ミナミさん?こちらの処置は終わりました」
「あ、ええ、ありがとうございます。こちらも終わりましたので……」
治療を手伝ってくれていた村人に声をかけられ、ミナミは思考を素早く切り替えた。治療を受けていない黄色の糸を巻いた患者はだいぶ減っている。大部分が治癒術によって軽快し、緑の糸を巻き直されたか、処置済みとして簡易ベッドに運ばれていった。赤の患者も徐々に数を減らしている。見ればスフェンもひと段落つくところのようだ。
「戻ったよっ」
声のした方向を見れば、項垂れた男性を連れたエドヴァルド達が衆園の森から帰って来たところだった。
「おかえりなさい。その方、どこか怪我を?」
ミナミが問いかけると、男性は力なく首を横に振った。
「いや、俺は大丈夫だ……うっ……うう……」
「……ミナミ、この人をどこか休める場所に案内してあげてくれない?」
「承りました」
すすり泣く男性を救護所に案内してから外に出ると、先程は姿の見えなかったヴァリとロマリリスも帰還していた。戦闘があったのか、彼の頬には血を拭った痕がある。小休止していたスフェンがそれに気付くと、ヴァリに近寄って顔に手を寄せた。
「おい、お前怪我してるのか」
「平気。返り血だから」
どこか悲しげなヴァリの表情を見て取り、スフェンは続く言葉を選んでいるようだった。
「通してくれ!怪我人だ!」
すると、里の中に慌ただしい声が響いた。村の入り口に視線を移すと、数名の星戦士団が外れた戸板を担架のかわりにして、血まみれの重傷者を運ぶ姿があった。その光景を見て、村人の一人が口を開く。
「あれ、村外れに住んでる爺さんじゃ……」
人々の視線がその老人に注がれると、落ち着きを取り戻しつつあった村人達の間に、不安と恐怖の色が再び見え始めた。あまりに酷いその惨状は、不安定な均衡にある彼らの心をかき乱していく。
老人の眼は炎で炙られたように爛れ、瞼の肉と頬回りの肉がくっついている。その他にも全身の火傷、骨折、裂傷による出血。長くはないと誰の目にも明らかだった。
「あのお爺さん知ってます……信仰熱心で、毎日お参りするためにプルシャ寺院の近くに住んでた方だと思います」
ミナミの補佐をしてくれていた女性は、きっと逃げ遅れてしまったのだと言うと、悲痛そうな表情で老人から顔を背けた。
「だ、だぁ、れか……」
戸板が地面に下ろされると、老人は細い腕を上に伸ばして苦しみ、呻きを上げた。スフェンが傍に駆け寄るも、傷の深さと年齢からして、強力な治癒術を施せばかえってショック状態に陥り即刻命を落としかねないと判断し、下手に術を使えないでいるようだ。
これ以上自分に何ができるのだろう。苦悩するスフェンの心の声がミナミにまで聞こえてくるようだった。ああなってしまったら後は苦痛を少しでも和らげ、緩やかに眠れるよう手助けをするくらいしか彼らにはできない。
「まずいな……」
ヴァリが努めて小さな声で呟く。それにはミナミも同意だった。多くの村人がスフェンと老人のやり取りを注視している。ある者は老人の安否を心配し、ある者は自分もああなるのではないかと怯えていた。
恐怖は感染する。そして一度堰を切ってしまえば留まるところを知らない。もし、里の中で獣になってしまう者が現われでもしたら。
杖を握るミナミの両手に力が入った。
(壊滅では済まない……)
表面上は平静を保っていたが、ミナミは内心で戦慄した。出来る事なら老人を村人の目につかない場所へ運びたい。しかし、あの状況では難しいだろう。
老人の縋るように天へと伸ばされた手はボロボロだった。獣から逃れるために必死だったのだろう。泥と血にまみれ、細かい傷だらけだ。欠けた爪の間には土が詰まっており、彼が生きるために足掻いた証がそこにはあった。
だがどんなに医療が発達しようと、どれほど魔法に優れようと、助かる術のない命というものはある。確実な死が老人の目前に迫っていた。
希望はない、救いもない。縋る縁を失った者の絶望はいかばかりか。それは終末のもたらす本質そのものに思えた。
「あ、……だれ……どう、か……」
老人の手はなおも彷徨う如く空を掴む。それだけでも体は相当痛むはずだったが、彼は何かを求めて最後の力を振り絞っているようだった。痛ましいその姿に、村人達がざわめきだす。
「……っ」
そこで老人を見ていたスフェンがおもむろに動いた。手袋を外し、白い服が汚れるのも構わずに膝を突くと、血と汚泥に塗れた手を両の手のひらでぎゅっと包む。すると、呻き声が小さくなり、微かに苦痛の表情が和らいだ気がした。
「か……み……がみよ……」
乾いた唇を懸命に動かし、老体が訴える。
「お、おし、……え……」
「……」
手を握るスフェンは目を瞑り、そのか細い声を聞き取ろうとしている。
「スフィ……」
ミナミの隣に立つヴァリが、スフェンを見つめて固唾を飲む。同時に、老人の体から黒煙のような靄が僅かに立ち上り始めているのを捉えた。獣化の兆しを発見したヴァリは反射的に大剣の柄に手を回そうとしたが、衆人環視の中で抜刀することは憚られる。ただでさえ村人達の間に不安と恐怖が広がりつつある状況で、これ以上彼らを刺激したくはなかった。
それに、老人の状態に気付いているだろうスフェンが動かないのだ。何か策があるのだろうか。最悪の場合を考えいつでも飛び出せるように構えつつ、ヴァリは二人を見守った。
「どう……どうか……ゆう、き……」
振り絞るように老人は何とか言葉を紡ぐ。目は見えず、最早周囲の音も聞こえているのか怪しかったが、握ったスフェンの手を頼りに何かを伝えようとしているようだ。
老人の言葉を聞いた次の瞬間、スフェンはハッと目を見開き、唇を噛みしめた。歯がゆい、そんな気持ちが読み取れるような表情だ。そして一度深く息を吐き出すと、はっきりと力強く、祈りを込めてその訓えを唱えた。
「『産まれし者よ聞け』……」
その一言に、水を打ったような静けさが広場を包む。
生とはただ美しきものにあらず。
生ける者は苦痛を知り、災難を知り、絶望を知る。
あらゆる辛苦は降りかかり続ける。
焼けた道を行けど褒章はなく、
道の傍らにはいつも、死が口を開いている。
それらはお前を恐れさせ、嘆かせ、苛み、悩ませるだろう。
だが、目を閉じてはならぬ。
かくのごとき生を見据えよ。
お前を打ちのめしている辛苦は、
しかし、お前を弱くはしていない。
ひとつひとつが、焼けた鉄に振り下ろされる、鎚に似て……、
「お前を、強き……強き剣と、成すだろう……」
それは、プルシャ寺院でマトシャが島民達に思い出してほしいと言った、サベネアの神々による最初の訓えだった。
静まり返った里にスフェンの声が満ちる。いつしか広場にいるすべての人々が彼の声に耳を傾けていた。
「ああ……あり、が…………………」
老人の途切れとぎれに震えた声は、それでもどこか穏やかだった。それに対して、スフェンは熱を分けるようになおも手を握っている。
そうしていつしか体から出ていた靄は消え失せ、それきり老人は動かなくなった。
「……黒糸を」
黒糸。それは四段階ある治療優先度の中で最も低い順位を表す色だった。死亡、あるいは回復の見込みなしという意味である。
指示に従ってミナミが糸を渡すと、スフェンは強張った手を老人から離し、そっと体の両側に添わせるように老人の腕を置いた。手首に巻いた糸の黒と、色を失くして白くなったスフェンの指先の対比が物悲しい。
老人はあれほどの傷を負いながら安穏とした死に顔をしていた。火傷で顔の半分はよく分からなかったが、口元は恐怖に歪むことなく薄っすらと微笑みを浮かべている。
「……後は星戦士団に任せよう」
そう言ってスフェンはふらりと立ち上がり、再び負傷者の治療に当たるため指揮を執り始める。彼が声をかけると、皆一様に夢から覚めたような反応で忙しなく各々の役割に戻っていった。
ミナミは当然スフェンの様子が気になったが、今は自らの務めに集中すべきときだと自分に言い聞かせる。しかし、隣に立ち尽くしたままのヴァリ相手には、流石に背中を叩くぐらいはした方が良さそうだ。
「ヴァリさん」
「あ、ミナミ……」
ヴァリの様子からして、まるでミナミがいた事を忘れていたようだ。彼がスフェンの行動に何を感じたのか、それを彼女は何となく分かっていたが、あえて口にはしなかった。種類と程度は違えども、ヴァリとミナミは大きな括りで言えば同じ穴の貉だ。手に取るように、とまではいかなくとも、何を信じ何を眩しく思うかは理解できた。
「私達も負傷者の対応に参りましょう。お手伝いいただけますか」
赤い空の下でミナミはにこりと微笑むと、半ば呆けたままのヴァリを強引に引っ張っていった。
「さあ、重傷者の手当は終わりましたが、まだまだ避難されて来た方が大勢います。今は私達に出来る事を粛々と行いましょう」
後ろ髪を引かれる思いでいたヴァリも、これに頷いて答えた。
パーラカの里の村長が働き詰めのミナミ達を気遣って休むように進言してくれたおかげで、救護活動をしていた面々も避難民が途切れた頃にようやく一息吐けた。
ミナミは一早くその輪を抜け出すと、先程から姿の見えなくなっていたスフェンを探して里の階段を上がっていく。きっと今頃、ヴァリも同じように彼を探していることだろう。だが、今のスフェンに必要なのは悲しみに寄り添ってくれる人間ではない。だからヴァリよりも先に、ミナミが言葉を交わさなくてはと思った。
「……こんなところにいらっしゃったのですね。あちらで休憩してはいかがですか。お疲れでしょう」
偶然を装って白い背に声をかけたが、ミナミには初めからそこにスフェンがいることが分かっていた。人目につかぬよう里から少し離れた草地に並べられた死体の前で、彼は拳を握り締めて押し寄せる激情に耐えている。
「……俺が、もっと……」
「いいえ、その方々は助かりませんでした」
ひどく震えた声を遮るようにそう言うと、揺れる淡藤色の瞳が振り向く。
「でもっ!もっと出来た事があったんじゃないかっ⁉俺にその力があれば……!」
後悔と無念。スフェンの嘆きからそれがありありと伝わった。
「持てる技は尽くしました。けれどどんなに足掻いても、足りないこともありましょう。我々は万能ではないのですから」
ミナミは事実をありのまま淡々と述べた。スフェンも自分も、最善を尽くして治療に当たったのだ。その結果、救えなかった命があった。それはどうしようもない事だ。
暗にそれを受け入れろとミナミはスフェンに告げた。しかし、悲しげに歪んだ眉根がそれでも納得できないと主張している。
「…………見えたんだ……爺さんの過去が……手を取った瞬間超える力が発動して……」
空が燃え、どこからともなく異形の獣が姿を現す。獣は人々を薙ぎ払い、老人もまたその凶刃に引き裂かれた。掠れた視界で最後に見たのは、逃げ惑う親子が獣に転じる光景。そう、獣は人間なのだ。老人はその事実に打ちのめされ恐怖した。体を炙られ激痛に苦しみながら何とかその場を脱したときも、痛み以上にその目で見た現実が彼を絶望に叩き落とした。
「爺さんは怖くて仕方なかったんだ。でも、死ぬことが怖かったんじゃない。……自分が、獣になってしまうかもしれないのが恐ろしかったんだ……」
スフェンは老人の記憶から、その感情まで感じ取ったのだろう。それはまるで己の信仰を否定されたような心地だったと呟いて顔を覆った。
記憶の中で獣となった親子は、それまで一緒に助け合って走っていた人々に頭から齧りついた。人の心を忘れ、ただ暴威を振るう。獣になるとは、そういう事なのだと老人は悟り、そして戦慄した。獣になればこの信仰も何もかもがなくなってしまう、と。
「信仰を忘れたくない。獣になりたくない。……死ぬのなら、人のまま死にたい……だからっ、恐怖を払いのける勇気が欲しいって……」
スフェンを通して、亡くなった老人の慟哭が聞こえた。ミナミ達はそれぞれ超える力を持っている。その中でも、スフェンは対象の感情に共鳴しやすい傾向にあった。それが良い事なのかどうかは、ミナミには分からない。
「俺が出来たのは、爺さんが過去に繰り返し口にしていた訓えをなぞるだけだ……。それも、生きる事への訓えだなんて……」
それは死にゆく者へ鞭を振るう行為だったのではないかと、後悔にも似た懺悔をスフェンは吐き出した。
「でも、私にはあの方がその訓えに救われたように思えました。スーさんが手を握ってくれたから、彼は絶望の中で最期を迎えずに済んだ」
スフェンを慰めようとは思っていない。これもまた事実だろうと、ミナミの中で確信があったからこそ口をついて出た言葉だった。
掌を下ろし、スフェンが再びミナミを見据える。涙こそなかったが、深い悲しみが、あるいは焦燥のような色がその瞳からは窺えた。
「……しかし残念ながら命は……。奇跡でも起こらない限り、助けることはできなかったでしょう」
追い打ちをかけるような仕打ちだと理解している。それでもミナミは言わなければならなかった。同じ癒し手として、スフェンがこれ以上重い枷のような気持ちを持ち続けなくてもすむように。
「……偶然の奇跡なんてほとんどない。奇跡は、ひとが積み上げたものの上に成り立っている。原初世界でも、第一世界でも、そんな出来事をたくさん見てきた……」
スフェンの言葉に、ミナミはハッと目を見開いた。
彼は血を洗い流して綺麗になった自らの手に視線を落とすと、ぎゅっと強く握り締める。その掌に何を見ているのだろう。数多の旅の記憶か、それとも失った者達の影か。
「仕方ないだなんて思いたくない。足りなかったんだ。『奇跡』を起こすためには、まだ……」
そう言ってスフェンはミナミに背を向けると、土がつくことも厭わず膝を突いて死者へ祈りを捧げた。
全ての命を救おうなどと、土台無理な話である。きっとスフェンもそれを分かっているだろうに。分かっていながら、自分の無力を嘆き悔いているのだ。
(……なんて傲慢なひと)
ミナミは、スフェンがこれ以上背負い込む事のないようにと願っていた。けれども彼は、今日の日の悲劇を胸に刻み、冷たい掌の感触を忘れず、それでもなお歩むことを止めない道を選ぶようだ。それはとても辛く苦しい道だろう。
それでも積み上げ続けるつもりなのだ。暗闇の中の微かな光を掴むよう、次は奇跡を起こすため。自分の手のひらから、何も取り溢さないために。
(…………傲慢で、優しいひと)
ミナミにはもうかける言葉が見つからなかった。先程のヴァリのように、その場で立ち尽くして祈るスフェンを見守るしかできない。
(……嗚呼、眩しい。私もヴァリさんのこと言えませんね……)
彼の悲しみを慰めるのは決して自分の役割ではないと自らに言い聞かせてから、ミナミはただ項垂れる背の後ろで手を組み祈った。