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<3.Pleochroism(多色性)>


 会議室に重々しい空気が流れる。その場に召集された仲間達は、固い面持ちでマスター用のデスクに腰掛けるスフェンの言葉を待った。
「……タタルから連絡があった。明朝、シャーレアンに向けて発つ」
「いよいよ……だね」
 ウナギが小さくぽつりと溢した呟きに、皆静かに頷いた。
 終末の塔が世界各地に出現してからしばらく。かの塔を調査するために様々な手が打たれた。しかし、先遣隊として潜入したアレンヴァルドとフォルドラは、塔の内部で異形の蛮神に襲われあえなく敗走。塔の正体は分からないまま、各国が協力して一応の対処に当たっているのが現状だ。
 クルルとも話し合い、謎を解き明かすためにはシャーレアンの知識を借りるべきなのではないかと結論付けた暁の血盟は、知の都に渡るための手筈を整えていた。スフェン達もこれに同行すべく、タタルからの連絡を待ちながらその準備を重ねていたが、ついに明日北洋に向けて出発することとなった。
「初めて行く土地だからな。行きはリムサ・ロミンサから海路だ。それなりの長旅になると思うし、しばらくここへは帰って来られないだろう」
 皆が集う家に帰れない日々が続くのだと思うと、不安を抱かずにはいられない。表情を曇らせるウナギやハンナを見やって、スフェンは努めて穏やかな口調で明日に備えるよう伝えた。
「北洋は寒いぞ。防寒着はしっかり持つように。それから、今日は早めに寝て休むこと。船着き場に遅刻するなよ」



 ヴァリの近くには、いつも「星」が輝いている。身を裂くような嵐の中でも、自分の足元すら見失う暗闇の中でも、その「星」は絶えず光を放っていた。旅人が寄る辺とする導き星のような、青白い凍ての光。
 汚泥に足を取られ、歩む道が分からなくなったとき。抗えぬほど強大な力に圧し潰されそうなとき。「星」の光が揺らぐヴァリを支える。その目が眩むほどの光輝が、崩れそうな足を前へ、また一歩前へと押し進めた。「星」を標に歩み続ける。それは今も変わらない。
 この先の旅路に不安がないと言ったら嘘になる。だが、ヴァリに恐れはなかった。どんなに絶望的な状況だろうと、あの光を頼りに何度でも立ち上がれる。その自負があった。

 目を焼く程に近く、けれど今は彼方で輝く光。

 秋の終わり。この季節のゴブレットビュートは、熱気が弱く特に夜は過ごしやすい気候であった。庭のテーブルにランプと夕食を並べたスフェンとヴァリは、涼しげな水音を聞きながら食事の真っ最中だ。
「多めに作れって言うからそうしたけど……まさか全部食べるとは思わなかった」
「しばらくスフェンの作ったご飯食べれないから、食べ溜めしときたくて」
「食べ溜めって……」
 北洋へは船の旅。シャーレアンに着いてからも自炊をする機会は当分ないだろう。ヴァリは最後の晩餐と称して、いつもより食事の量を増やしてくれとスフェンに頼んでいた。
「そんな事これまでたくさんあっただろ……」
「……今回はなんとなく、期間が長くなりそうだなって思ったから……」
 事態は思う以上に深刻かもしれない。ヴァリだけでなく、スフェンにもその予感はあった。終末の塔を巡る戦いの影に潜む淀み……ファダニエルと名乗る男の思惑は未だ判然としない。
 これから何が起こるのか。シャーレアンの持つ知識が、問題解決への糸口となるのか。まだ確たるものは何もない。未知の事象に対する、言いようのない不安を感じ取っていた。
「……さて、食べ終わったし、片付けようかな。スフィは先にお風呂入ってきて」
「いい。俺も片付ける」
 そう言ってスフェンは、空になった皿を重ね始める。
「順番に入らないと、お風呂遅くなっちゃうよ」
「一緒に入ればいいだろ。せっかく内装変えて、風呂場も広くしたんだから」
「え⁉いいの⁉」
「その方が効率的だろ」
 スフェンに言葉以上の他意はなさそうであったが、ヴァリは内心小さく飛び上がった。明日からは緊迫した日々が続くと予想されているだけに、今晩は彼に寄り添いのんびり過ごしたい。ヴァリは家に帰ってからそう考えていた。
 スフェンがその思いを汲んでくれたのかは定かではないが、これは恋人とくっつけるチャンスだ。またとない口実を得て、ヴァリは片付けの手を早めた。


 食事の片付けと明日の準備が完了すれば、あとは汗を流して眠るだけである。脱衣所のぼんやりとした灯りの下で、脱いだカーディガンと白いシャツを洗濯籠に突っ込むスフェンに倣って、ヴァリも着込んだ黒い衣服を脱いだ。チェーンを通して首から下げた指輪だけ洗面台に置き、あとスフェンの服と纏めた。
 鏡に映るヴァリの体は傷跡だらけである。だが、大きな傷はもっぱら古いものばかりで、新しい傷は比較的小さいか、薄っすらとした色の変色に留まっていた。それもこれも、スフェンが治癒術を学ぶようになったおかげである。
 第一世界での戦いからしばらくして、スフェンは治癒魔法に関する勉強を始めた。理由は特に聞いていない。聞いたところで、「必要だから」としか返してはくれない気がした。
 スフェンの学ぶ術は多岐に渡り、魔法による生命力の活性促進だけでなく、医術の分野にも手を伸ばしている。最近は怪我をしても彼が即座に治療してくれるので、ヴァリの傷も昔に比べて大した痕にはなっていなかった。また、ヴァリ自身が無茶な戦い方をする機会が減ったことも要因の一つだろう。
 シャワーのコックを捻ると、二人して熱い湯を頭から被った。少し前に改装した風呂場は、成人男性二人が並んでも充分なほどの広さがある。
「先に洗う」
「じゃあ背中流してあげようか?」
「……」
 ジトっ、とスフェンの淡藤色の瞳がねめつけてくる。
「なに……?」
「……今日はしないからな」
「し、しないよ……!」
 ならばよしと、とスフェンがヴァリに背を向けて椅子に座った。良きに計らえ、という意味である。驚きに詰めていた息を吐き出して、ヴァリはスフェンの背を泡立てたタオルで拭った。
 ヴァリも健康な男性であるからには、肌を上気させた恋人を前に邪な気持ちがまったくないかと問われれば微妙なところではある。しかし、今日は熱を高め合うより、ただスフェンの体温を感じていたかった。
 スフェンが自分で前面を洗いつつ、ヴァリが背中を擦って流す。ついでだからと頭も洗おうと白い髪に触れれば、ぺたりと耳が垂れた。
「お痒いところございませんか?」
「耳の後ろ……」
 美容師の真似事をして聞けば、スフェンは目を閉じて心地良さそうに答えた。泡が入らないように伏せている耳の後ろを指先で掻くと、色気もへったくれもない声が浴室に響く。
「゛あー、いい……」
 格好をつけているわけではないが、外では普段から背筋を伸ばしてしゃんとしている彼も、家の中では伸びきった猫のようであった。
 そのまま順番にヴァリも体を洗い、交代してスフェンに背や髪を流してもらう。ぶっきらぼうな声色とは反対に、慈しむような指先。触れる温かな掌に、ヴァリはうっとりと身を任せた。
 一日の疲れをさっぱり洗い流すと、奥の浴槽に二人して体を沈める。溜めた湯が少し溢れて流れていくのを眺めて、スフェンが呟いた。
「浴槽はもう少し広く設計してもよかったな」
 ぴちょん、と天井から結露した雫が落ちる。
「これくらいでいいよ。ほら、くっついてれば全然平気」
 ヴァリは向かい合って座っていたスフェンに手を伸ばすと、こっちに座ってほしいと手招く。水面を波立たせながらスフェンが移動すると、ヴァリの体を背もたれにして座り直した。
「ね?余裕でしょ」
 ヴァリが後ろから軽く抱き込むと、少し下の方から呆れを含んだ小さな笑いが耳に届いた。その声が、ヴァリの胸の中に満ちていく。
 スフェンは前よりもよく笑うようになった。特に、ヴァリと二人きりの時間に。その笑顔を見る度に、「お前は特別だ」と示されているようでこれ以上ないほど嬉しかった。
 一方で、硬質な鋼の蕾が花開くような変化が、喜ばしいのと同時に少し寂しく思う。今は限られた小さな世界の中で見せる笑顔も、いずれ自分以外の相手にももっと見せるのだろうと考えると、しばらく自分だけに向けていてほしいと願わずにはいられない。決して言葉にはしない、ヴァリの密やかなエゴだった。
 スフェンを自分のものにしたいなどと、考えたことは一度もない。ただ、見ていてほしかった。ずっとこちらを向いていてほしかった。それだけでヴァリは――。
「おい、大丈夫か。のぼせるなよ」
 スフェンの呼びかけで我に返る。下に顔を向ければ、心配そうな瞳とかち合った。
「……平気。ちょっと考え事しちゃった」
 誤魔化すように微笑めば、鈍感なようでいて時折妙に鋭い恋人は、ヴァリの頬に軽く口づけると、熱い、と一言溢して浴槽から出て行く。尻尾を振って水気を切ったときの水滴が、ぴしゃりと顔を打っていった。


 柔らかな生地を使った寝間着は、職人・スフェンのお手製だ。清潔なベッドシーツや枕カバーも自作の品である。どれもヴァリのお気に入りだった。
「不安だ……明日時間通りに全員いるだろうな……」
「あはは……」
 ベッドの縁に腰掛けて熱心に尻尾の毛並みを整えるスフェンは、とりあえず目先の心配事が頭から離れないらしい。
「モーニングコールかけるか……」
 スフェンはベッドサイドに置いたFC用のリンクシェルを眺めつつ、ブラシをかける手は止めていない。タオルドライで少し絡まっていた毛並みだったが、あっという間にふわふわだ。
「ウナギなんて逆に緊張して一睡もできてなかったりして」
 ヴァリは冗談めかして言いながら、スフェンが座るのとは反対側からベッドに入った。
「ありえそうな事言うの止めろ……」
「あはは、あんまり心配ばっかしてるとスフェンも目が冴えちゃうよ。もう寝よう」
 自分の隣の布団を捲って中へ入るよう誘うと、スフェンは一つ溜め息を吐いてブラシを置いた。隣り合って横になると、すぐに彼の体温でベッドの中が温まってくる。天然の湯たんぽのようだ。今日もきっとよく眠れることだろう。
「おやすみ、スフィ」
 白い瞼に唇を落とす。
「ん、おやすみ……」
 温かな布団の中で、スフェンはすでにとろとろと眠気に包まれている。数分もしないうちに、どこかあどけない寝息が聞こえてきた。
 ヴァリも続いて目を閉じる。スフェンほど寝つきが良いわけではないため、眠りに落ちるまでの束の間、ゆっくりと思考の渦に落ちていった。
(今度はシャーレアンか……随分遠くまで来たなあ)
 過去の出来事が瞼の裏に蘇る。帝国との戦い、竜族との攻防と融和、アラミゴ奪還、第一世界の旅。目まぐるしく、しかし鮮やかな記憶たち。
 旅の中で多くの人々に出会い、なかば成り行きのようなところもあったが、結果としてたくさんの命を救った。そしてそれを積み重ねた末、為した事の大きさ故に、いつしか『英雄』という肩書きがついて回るようになったのは、ヴァリからすれば皮肉としか言いようがない。
 口が裂けても誰かのために行動しただなんて言えなかった。他人を救ったその行い自体は、突き詰めれば自分自身のためにすぎなかったからだ。
『誰かに必要とされたい』
『自分の居場所がほしい』
『そのために、自分の価値を示さなくてはならない』
 それらはヴァリの行動原理の根幹をなす思いだ。そんな気持ちを抱えていたがため、自分の行いは、純粋な善行とはほど遠いとずっと考えていた。
 そうして、『英雄』と呼ばれるたびその呼び名が重くのしかかる。憧れを含んだ眼差しも、賞賛の言葉も、ときにひどくヴァリを苦しめた。自分は決して本物の『英雄』ではない、虚像のようなものだ。だがそうは思っていても、その気持ちを吐露するわけにもいかず、結局は曖昧に微笑むだけ。後には何も知らない相手を騙しまったような罪悪感が残った。
 だからこそ、ヴァリはスフェンの存在に救われる。
 身を裂くような嵐の中でも、自分の足元すら見失う暗闇の中でも、希望を失わず歩み続ける姿に、ヴァリは彼の思い描く英雄像を見た。汚泥に足を取られ、歩む道が分からなくなったとき。抗えぬほど強大な力に圧し潰されそうなとき。何度でも立ち上がるその背が、揺らぐヴァリを支える。
 スフェンと共に、辛く、苦しい現実をたくさん見てきた。同時に、世界の広さと美しさも。彼の隣で眺める世界は、まるで生まれ変わったかのように一つ一つが新しく、意味を持ってヴァリの中にすとんと落ちてくる。漠然と通り過ぎていた自然の景色や、人々の営みの風景。時折それらに足を止め、目を細めて口元を小さく緩めるスフェンが好きだった。
 彼を信じて、ずっとその横に寄り添っていたい。抱いた気持ちを言葉にして伝える自信がヴァリにはまだなかったけれど、いつかこの想いを打ち明けられたらと、まどろみ始めた意識の中で願った。
「…………スフィ」
 眠るスフェンを腕の中に引き寄せると、流石の彼も起きてしまったらしい。もぞもぞと布団の中で動くと、ぼんやりと瞼が開いた。
「ん……なんだよ、眠れないのか……」
「ごめんね、起こすつもりじゃなかったんだけど……」
 寝ぼけているのか、スフェンは一瞬体を起こしたかと思うと、腕を伸ばしてヴァリの頭を抱き込みそのままベッドに倒れ込んだ。
「ふあ……早く寝ろ……」
 大きなあくびを一つして、さらさらと真っすぐな金髪を掻き混ぜた。
「~~……~~……」
 途切れとぎれに歌が聞こえる。耳馴染みがないうえ、古い言葉なのか歌詞も分からなかったが、スフェンの半分寝ぼけて甘く掠れた声が優しげだったので、子守唄なのではないかと思った。温まった胸から、トクトクと鼓動が聞こえる。その音がなんとも眠気を誘った。そうしてヴァリは眠りに落ちていく。新たな旅路を、スフェンと共に歩む夢を見て。


ヴァリの近くには、いつも「星」が輝いている。
それは隣り合うほどに近く、されど未だ遠く彼方の光。