<君の名前も知らない>
水夫が積み荷を運ぶかけ声と、波止場に留まる鴎のおしゃべりを聞きながら、小柄なヒューラン族の若き青年は真昼間から酒を煽って自身の境遇を嘆いた。
「何が簡単な仕事だっ。ただの害獣退治なんて嘘じゃないかっ」
青年は文句を言いながら、爪の間に入り込んだ砂を忌々しげに指先で掻き出す。短く雑に切られたブルネットの髪からもパラパラと僅かに砂が落ちた。整った顔をしているのだが、泥や砂に塗れていてはどうにも薄汚れた印象だった。
熟練の冒険者からすれば、一目見て駆け出しから一歩踏み出した程度の装備と分かる青年は、依頼完遂書と、報酬の入ったと思しき麻袋をジョッキの隣に置いて、剣呑な眼差しでそれらを睨みつける。書状には「ブラインドアイアン坑道の害獣駆除依頼」と書かれており、その上から赤い朱肉で「完了」の判が押されていた。
「お兄さんどうしたの?そんなに荒れちゃってさ。仕事はちゃんと終わったんでしょう?」
溺れた海豚亭の給仕が追加のつまみをテーブルに置きつつ尋ねた。冒険者達で賑わう店内において、青年が陣取る卓の周りだけはぽっかりと空間ができている。酒を飲んで声を荒げながら砂をまき散らす輩に絡まれたくない他の客が、彼を避けて遠巻きにしているせいだった。店としてはいい迷惑だ。
「依頼の内容がクソだったんだよ……」
声のトーンを落として青年が答え、依頼書を給仕に突き出して見せた。
「どれどれ~……『求む、ブラインドアイアン坑道に住み着いた害獣を退治してくれる者。鼠を駆除する簡単な仕事です』。あ~、農場の方にはラットの巣があるもんね~。そこから坑道に入り込んだのかな」
「ラットだけじゃない!蝙蝠の群れはいるし、坑道から出たら逃げてきたラットに驚いた猿共も襲ってきて散々だった!あげくコボルト族まで現れるし……」
「君一人だったの?」
「ああ」
「そりゃあご愁傷様。無事に帰れてよかったね」
依頼の途中にトラブルなんてよくある事。数々の冒険者を見てきた給仕からすれば、大きな怪我もなくリムサ・ロミンサまで帰還できたのは僥倖であろうと思ったが、青年はそう考えていないようだ。
「一人で片付けるのはだいぶ骨が折れた……ぜんっぜん簡単な仕事じゃない……おまけにこんな苦労させといて報酬が釣り合ってない!これの倍はあって然るべき……ひっく……」
酔いが回っているのか微妙に呂律が怪しくなってきた青年を前に、給仕の女性もこれはお手上げだと扱いを放置に方針を変えたようだ。付き合いきれないと表現するように、空になった盆をひらひらと片手で振って厨房へと戻って行った。
青年はなおもエールを体に流し込んで嘆息する。
(冒険者になったのは失敗だったかな……はあ、向いてねぇー……)
彼が冒険者として身を立てようと決心したのは、二年ほど前のことだった。“前職”から足を洗ってもっと別の仕事がしてみたいと思い立ち、呪術士ギルドの門を叩いたのが始まりである。
幸い、魔法の適正があったおかげでギルドにて教えを乞うことに成功したが、当時は文字の読み書きができなかったので一般的な勉強から始めるようにとララフェル族のギルドマスターから言い渡された。魔法の習得は二の次で、一年くらいの間はとにかく魔導書を読めるようになる努力が必要だった。魔法以外についても指導してくれたギルドマスターには感謝している。
読み書きができるのは良い。青年の世界はそれだけで大きく広がった。文字が読めなければ依頼書の内容すら理解できない。
(でも冒険者になったのは我ながら思い切りが良すぎたな……。商人の下働きとか、他にいくらでも仕事はあったくせに……)
記憶にこびりつく、きらりとした思い出の一片が彼を冒険者の道へと駆り立てた。冒険者になれば、その輝きに手が届くような気がしていたのだ。
(馬鹿だ……)
冒険者業を始めて、すぐに面倒な、いや、大変な仕事を選んでしまったと少し後悔した。覚えることは多く、魔物との戦いで怪我をするリスクもあり、一人で仕事をしているときは表し難い孤独を感じる。
(まあ一人なのは変わらねえか)
幼い時分に身寄りを失った青年には今更であった。それでも、環境を変えて決して楽ではない道に進んだことを軽く悔やむぐらいには、慣れない生活から弱気になっていた。
こうなってくると人間は楽な道に逃げたくなる。知っている道、これまでも歩んできた道に戻れば、先の現実に目を逸らしながら何も考えずに一時思考を停止させて生きていけると知っているからだ。
青年のこれまでの人生は逃げの一手であった。自分は馬鹿だから、貧しいから、恵まれていないから、頑張ることができない。そう決めつけて楽な道を選んで、その道が緩やかな下り坂になっていることに気付かないふりをして、いつしか砂漠の底に落ちていた。
実際矜持や誇りじゃ飯は食えない。だからそれらをすべて捨てて、以前の青年は夜のウルダハで働いていた。年中無休の春を売る生活だ。両親のくれた顔と体を駆使して、彼は砂漠の夜を渡り歩いていた。他の道もあるにはあったが、考えるのが面倒で、リスクには蓋をして「こっちの方が稼ぎが良いのだ」と自身に言い聞かせていた。
しかし、人生とは分からないものだ。そんな青年が、今や冒険者に転身しているのだから。
「一生同じことして暮らしてくとは思ってなかったが……まさか俺がなあ……」
酔った青年はそう呟くと、とうとうテーブルに突っ伏した。深い溜め息とともに、転職の二文字が脳裏に過る。
だが、冒険者業に挫折しかけている自覚を持ちながらも、青年は自分がこの道を諦めないと心の底では確信していた。どんなに辛くて大変で辞めたいと考えても、きっと最後は、あの夜を思い出してみっともなくしがみつくことだろう。
たった一夜の記憶。しかし、自分を引き止めるのには充分な──。
すると、物思いに耽っていた青年の視界が急に陰った。気配を感じて首だけ横を向くと、白装束のミコッテ族がこちらを見下ろしていた。
「相席してもいいか?他が空いてないんだ」
軽食と本や紙の束を携えたミコッテ族の青年は、そう言って余った椅子を視線で示した。
「好きにしてくれ……」
「悪いな」
アルコールのもたらす眠気に逆らえないまま了承すると、相手は無駄のない所作で椅子に座り、サンドイッチを片手に書類を読み始めた。
(細工の良い服だ……。装飾も上等……)
もともとの職業病で、つい相手の服装や持ち物に目が留まった。耳から下げた青い石の耳飾りは値打ち物だろうか。
(顔色が良くて健康そう……髪も清潔でお綺麗なこって……)
金は持っていそうか、病気持ちではないか。少しでも稼げる相手を、安全な客を選ぶための癖は青年に染み付いており、無意識のうちに相手を観察していた。
(『エーテル学と再生医療』、『東方薬学論』……ふーん、医者かなんかか……)
革製のカバーで綴じられた本の背表紙を目で追う。馴染みのない単語が連なるそれは、専門書の類のようだった。タイトルこそ読めるものの、中身はさぞ訳の分からない内容だろう。
(医者か……儲かるんだろうなあ……汗水垂らして働く必要ないってか……)
うつらうつらとする意識の狭間で、羨望とも嫉妬とも言える感情が湧き上がる。懐かしい感情だ。砂漠の都にいた時は、毎日腹の底に抱えていた。
青年は吸い寄せられるように再びテーブルに伏せって目を閉じる。そのまま誘われるように夢の世界へと落ちていった。
*︎
青年は、夢の中で古巣の砂都にいた。冷たい風が薄い衣服をはためかせ、路地を吹き抜けていく。
(客取んないと。それでどっかの宿に入れれば……)
青年は説明も前振りもなく始まったこの夢が、数年前のある日であることをぼんやりと理解していた。目に映る手足も今より頼りなく、栄養不足からの発育不良でまだ少年の名残を残す体は、一部の物好きにウケが良かったのを思い出す。
砂漠の夜は骨身にしみる寒さだ。季節は冬だろうか。この時期は野宿で過ごせばウルダハといえど凍死する可能性もあった。
「う、さぶ……」
寒さのせいか、一際人恋しい夜だ。誰かに凍えた手足を温めて、優しくしてほしい。一夜の温もりを求めて、青年は連れ込み宿が並ぶ通りを彷徨った。
(あいつは……ちょっと嫌だな……)
先程からチラチラ見てくる男がいるのだが、あれは駄目だ。ベッドの上で暴力を振るうタイプな予感がする。他にも視線を寄越す輩がいたが、どうにも乗り気がしなかった。いつもなら選り好みもしていられないと、一番金払いが良さそうな相手をすでに引っ掛けているところだったが、今夜は寒さのせいか体が縮こまって声も上手く出ない。
考えているうちに人気はどんどんまばらになっていく。
「軒下で寝るなんてマジ勘弁だっての……!なんか適当にいい感じの奴いないのか……!?」
次第に焦り始めた青年は、風避け代わりに纏ったボロ布の前をかき合わせながら通りを物色する。
すると、安宿の前に目立つ長身の男が立っているのを見つけた。フードを被った旅装の男は、布で巻いた簡素な剣と思しき長物を背負って、宿の前に掲げられた料金表を眺めているようだ。身なりからして、最近話題になっている「冒険者」と呼ばれる類の人物だろうか。
恐らく、背格好からしてエレゼン族だ。顔はよく見えないが、雰囲気が若そうだった。
(ええい、小汚いおっさん相手じゃなきゃ今日はもうなんでもいいっ)
ようやく踏ん切りのついた青年は、冒険者風の男に近づくと精一杯大人しげな風を装って声をかけた。
「お兄さん一人?」
呼びかけに振り向いた男の顔を見て驚いた。青年が今まで見てきた誰よりも美しく整った顔している。少し煤けているが、金色の真っ直ぐな髪と、緑がかった碧い瞳が印象的だった。
驚きに続く言葉を失っていると、男は青年を見てから何かを察したように「一人だよ」と曖昧に微笑んだ。
「あ、あの、良かったら一緒に宿入らない?」
いつも通り軽口の営業トークで誘おうとしたが、口をついて出たのは思ったよりも直球な台詞だった。
(おぼこでもあるまいし、なんつう気の利かねえ……)
内心自分の失態に舌打ちしながら、男の出方を待った。
こんな裏ぶれた場所の宿に入ろうとしていたくらいだ。宿に入らないかという言葉の意味も知っているだろう。ソッチの趣味はないと追い返されなければいいのだが。
冒険者の男はしばし考え込む素振りをしたが、青年が寒さに手指を擦っている様を見ると、「入ろうか」と小さな声で言って薄い肩を抱き寄せた。
「……」
カウンターに置かれた宿帳に名前を書き込む男の横顔を盗み見る。真っ直ぐ伸びた鼻筋と、薄い唇がその輪郭を形作っていた。
書き終わった男にペンを渡されたが、甘えたフリをして自分の分も書いてほしいと頼んで名前を告げた。男は快く了承して教えた名前を書いて見せてくれたが、青年は文字が読めなかったので、自分の名前が正しく書かれているのか分からなかったのでただニコリと笑った。
もちろん、流麗な筆跡で記された彼の名前も知ることはできなかった。
夜半に布団の中で目を覚ました青年は、体に残る余韻にうっとりとしながら瞬きをした。
(やばい……途中完全に飛んでた。今まで相手してきた客の中で一番上手いんじゃ……)
ベッドサイドに置いてある紙幣を眺めて、サービスしたのはいったいどっちだったのだろうと苦笑が漏れた。ともあれ、当たり客を引いたのは間違いない。
男娼相手に無体を働く客など掃いて捨てるほどいる。金を払ったのだからと殴られたりしたこともあった。この男はそういった屑とは違う人種のようだ。
(あったけぇ……)
足先に固くて温かいものが当たった。布団の中に行火が入れられているようだ。部屋に入った当初はなかったので、男が店に頼んで貰ってきてくれたらしい。これほど気を遣ってくれる客は初めてだった。
「……窓際寒くない?布団入ったら?」
布団から顔だけ出して呼びかけると、窓辺の椅子に腰掛けた男は手元の本から視線を外さずに首を振った。
小さな灯りとりの蝋燭が男の姿を照らしている。すでに服を着込んだ彼からは、もはや情事の熱など感じなかった。しかし、節くれ立った指先が、最中は存外熱かったことを青年は知っている。とても優しく相手を抱く事も、身をもって知った。
だが、言ってしまえばそれ以外は何一つ男の事を知らない。今更名前も聞けないせいで、首筋に縋りながら呼ぶ名もなかった。
目の前にいる彼は、実体があるのに不思議と酷く希薄な存在のように感じる。まるで漂う柔らかな煙のように、手を伸ばしたら指の間をすり抜けていくのではないかと思った。
これほど美麗で、優しい人物に青年は出会ったことがない。次に目が覚めたら消えてしまう都合の良い夢のようだ。
そう考えたら、無性に彼の事がもっと知りたくなった。
「何読んでるの?」
ベッドの上で頬杖を突いた状態で訊ねると、やはり男は視線を頁から外さず「兵法指南書」と短く答えた。いかにも挿絵のなさそうな題名だ。
「戦いに関する本ってことは、お兄さん冒険者ってやつ?」
その質問に男が頷く。
「やっぱり」
彼の体には大小様々な傷跡が散らばっている。最近のものから時間の経っているものまで、切り傷や火傷などレパートリー豊かな怪我から、傭兵か冒険者のどちらかだと当たりをつけていた。
男は、特に目的もなく旅をしながら諸国を渡り歩いているのだと言った。各地で冒険者向けの依頼をこなしながら、その日暮らしをしているらしい。
「冒険者って楽しい?」
眠気に抗いながら聞くと、男は例の曖昧な笑みを浮かべた。
その後は、今までどんなところに行ったのか、旅の最中でどんな出来事があったのかを根掘り葉掘り聞いて、その度に男は丁寧に教えてくれた。
自由だな、と青年は独りごちる。自分は選ばなかったが、そういう選択肢も世の中にはあるのかと素直に思えた。
「ウルダハにはあとどれくらいいるの?」
この質問に「分からない」と男は返す。特に期間も決めていないので、一週間後に発つかもしれないし、明日いなくなるかもしれないと答えた。
「ふーん……じゃあ、ここにいる間はまた会えるかもね」
何でもない風を装って放った言葉に対して、男は「そうだね」と一つ相槌を打った。それから、「疲れただろうし、オレの事は気にせず寝てていいよ」と言って、ようやく青年の方を向いた。本を閉じて立ち上がると、ベッドの前で止まる。
彼の瞳は風のない日の空のように穏やかで、なのに見つめられているとドキドキした。
「……お兄さんも一緒に寝たら?」
布団の片側を空けて誘うが、男は首を振り「下の食堂で軽く食べられるもの貰ってくるよ」と小さな声で呟いた。
「早く戻ってきなよ。今夜は特に寒いんだからさ」
その背中を引き止めるように投げかけると、男は一瞬足を止めたが、すぐに扉を開けて出て行った。古い階段が軋む音が遠ざかるのを聞きながら、できるだけ長い間彼がウルダハにいればいいのにと心の中で念じる。
青年が男に会えるのは、この壮麗で狭い砂の都の中だけだった。
(お兄さんは自分の意思でどこにでも行けるんだな。だから冒険者になんてなれるんだ……)
自分はどうだろうか。眠気の下りてきた思考のまま青年は夢想する。最低限の荷物を持った旅装の自分が、ナル大門を潜る姿を想像して表情が緩んだ。
(悪くないな……)
青年はそのまま深く眠ってしまった。翌朝目を覚まして見回すと、まるで最初から一人で泊まっていたのだと錯覚するほど部屋の中は静かまりかえっていた。
隣には誰もおらず、冷たくなったシーツを撫でる。何となくこうなる予感はしていたので、テーブルに置かれた軽食を見ても何の感慨も浮かばなかった。
ただ、荒野の向こうには青い海という巨大な水溜まりが広がっているらしいという話を、何故か今更になって思い出した。
*︎
「おい、混んでるんだから寝るんだったら宿に行け。俺も食い終わったから出るぞ」
「あ……?」
体を揺すられて急速に意識が浮上してくる。青年は自分の肩に置かれた白い手袋に包まれた手と、酒場の風景を見比べて現実に引き戻された。
「あー……寝ちまったか……」
夢の内容をぼやけた頭で反芻する。古い記憶の中でも、彼との出会いは数少ない良い思い出だ。仄かで美しい感情とともに思い出される出来事は、青年の人生でも特別な一幕だった。
「んー、どれくらい経った?」
「二十分くらいだ。ちゃんとベッドで寝ろよ。風邪引くぞ」
荷物を整理して立ち上がった相手は、そこで区切ると青年の方を振り向いた。
「……それと、低地ラノシア方面に生息している猿種のモンスターには燻した香草の類が有効だぞ。奴らが嫌う臭いだ。覚えておけば役に立つかもな」
「へ?」
そう言うと、ミコッテ族の青年は足早に店を出て行く。真っ直ぐ伸びた背中はあっという間に日差しの中へと消えてしまった。
どこから聞いていたのだろうか。世話焼きのような発言を残して、相席していた青年は溺れる海豚亭を後にして行った。
「あの人、結構有名な冒険者さんよ。きっと彼の経験談ね」
「そうなのか……」
やり取りを見ていた給仕の女性が教えてくれた。医者じゃなかったのかと考える一方で、うだうだと管を巻いていた所を見られていたのかと思うと少し気恥ずかしい気分になる。
「……次の仕事でも探しに行くか」
代金をテーブルに置いて、広げていた依頼書やらを片付けようと立ち上がった。しかし、その中に見慣れない書類が一枚紛れていたのに気付き手が止まる。
「こりゃ……あの兄ちゃんの忘れもんか」
一枚だけ『黒渦団』の印字がされた報告書が紛れていた。
「『サハギン族の文化・生態について』、『ヒトとの違い、交流にあたって注意すべき点』……なんだこりゃ」
少し前にサハギン族との和解がなったと海都で話題になっているのは知っていたが、ベテランの冒険者ともなれば異種族との交流なんて仕事もあるのかと首を捻った。
「何でもありだな」
「感心してないで早く追っかけな。あの冒険者さん、寝てるあんたの財布が盗られないように食事の間見張っててくれたんだからね」
青年は追い立てられるように店を出ると、途端に強い陽の光に晒されて目をすがめる。ここ数日ラノシアは快晴が続き、連日眩い日差しの熱に焼かれていた。白い石畳が反射してさらに眩しい。
「あっづ!すでに日陰が恋しいな……」
幸い午後になって陽が傾き始めているため、建物の影に沿って歩けばそれなりに熱気は凌げたが、陽光は手加減なしに青年の目を焼いた。手元の書類に視線を落とすが、日陰のない場所では紙面が光って何が書いてあるか分からない。
「っと、どこ行ったんだあの兄ちゃん……?」
黒渦団の書類であるならグランドカンパニーに行けば会えるのではないかと、付近を彷徨いてキョロキョロと見回した。
そして、広場の近くまで来たところで、青年の視線はそこにいた黒衣の人物に釘付けになってしまう。
「え……」
ヒヤリと、砂都の冬に感じた冷たさが蘇る。次いでそれに反して熱い指先と、曖昧な微笑みが目に浮かんだ。
金の髪は煤けておらず、手入れがされて艶もある。簡素な旅装ではなく、身につけているのは高い技術を用いて鍛造されたであろう黒の鎧とコート。髪型や体格は変わっていないのに、一目見て随分と印象が変わったなと感じた。
それでも間違いない。──あれは、二年前に会ったあの男だ。
「まさかリムサにいるなんて……」
昔の馴染み客に遭遇するのを嫌ってウルダハを出て冒険者業を始めたので、二度と会う事はないと思っていた。
無意識に自分の口角が上がっているのにも気付かないまま、ふらふらと男の方へと歩き出す。しかし、黒衣の男の影に目的の人物がいたのを見つけて、反射的に街灯の影に隠れた。
(あの二人知り合いだったのか……!)
何とも数奇な縁である。先程の夢は正夢に近いものだったのだろうか、彼を思い浮かべた矢先に出会えるとは。
「……」
身を隠しながら二人の様子を伺う。ミコッテ族の青年は、難しい顔で持っていた書類を一枚一枚点検しているので、大方忘れた書類を探しているのだろう。
一方で、あの黒衣の男はそんな青年に寄り添うよう傍らへ立ち、その顔を覗くよう前屈みになっている。その不自然なまでに近い距離に首を捻るが、自分の手元に視線を落としてたところで気付いた。
(ああ、そうか)
男は、眩しい日差しを大きな体で遮るためにあの場所へ立っているのだ。相手が眩しくないように、また、書類を確認しやすいように自らが壁となっている。相変わらず親切というか、優しいらしい。
(……どんな関係なんだあの二人)
早く持っている書類を届ければ良いものを、つい観察するように見入ってしまう。何となく、男の表情が記憶と違うせいかもしれない。
それにしても、以前は流れ者という雰囲気だったが、身なりを整えた今、彼は従順な騎士のように見えた。さしずめあのミコッテ族の青年が主人だろうか。そうだ、そうに違いない。でなければあの敬うような、慈しむような視線の理由が説明できない。
(あんな顔する奴だっけ)
そこまで考えて、ハッと息を呑む。男が何か言うと、相手の白い前髪をかき分けて口付けたのを見てしまったから。
怒られているらしく、近づけた顔を掌で押し返されている。それでも男はどこか嬉しそうで、青年が見たこともない顔をしていた。
記憶の中にある曖昧な微笑みや、手足を温めたあの温もりが、急に全部夢だったのではないかと思えた。一寸前まであった浮き足だった気持ちが薄れ、胸の内に秘めていた輝く『ナニカ』が音を立てて崩れていく。
「違う……違うっ……」
衝動的に体が動いた。書類を持って飛び出すと、少し足をもつれさせながら二人の前に躍り出る。
「さっきの……」
ミコッテ族の青年が驚いた顔で自分を見ているのも気にせず、書類を差し出して早口で忘れ物だと伝えた。目線は書類にあるが、意識はずっと横にいる金髪の男に向かっている。
「助かった。探してたんだ。やっぱり忘れてたか……。悪いな、追いかけさせて」
ミコッテの方がそう言って書類を受け取ると、自然な流れで書類一式の荷物を隣の男に持たせた。
「いや、いいって……。こっちこそ、さっきはサンキュな。あ、えっと……」
何を話すか言葉を用意しないまま出てきたせいで、舌が上手く回らない。
「誰?」
そこで初めて男が口を開く。声には若干の警戒が滲んでいた。
だが、その目はこちらを見てはいなかった。彼の視線はずっと隣の青年に固定されている。
いくら話しかけてもこちらを向かない、窓辺の横顔を思い出した。
(こっち向けよ……っ)
二人に見えない位置で拳を握り込む。
振り向かせたくて、知りたくて、たくさん話しかけた真冬の夜。あれは自分にとって間違いなく特別な日だった。
あの夜をもう一度。冒険者になった根底にはそう願う気持ちがあった。広く狭い砂の都の外で、男に再び見える夢を見た。
だから、自分の顔を見たら彼も少しはあの日を思い出して何か反応があるんじゃないかと、淡い期待を胸に二人の前に姿を見せたのだ。
だが、期待したものは何もない。そもそも最初に一瞥されてから、男は自分に見向きもしていなかった。表情なんて眉根の一ミリすら動いていない。
「さっき溺れた海豚亭で相席してたんだ」
「ふーん、そうなんだ……」
青年からの返答を聞いて、声音から警戒が薄れた。
「……そういえば、大甲士を待たせてるんじゃなかったっけ?」
すると急に、男は取ってつけたようににこりと微笑んで青年を促す。笑みの形でこそあったが、気のせいでなければその顔にはこの会話を早く終わらせたいと書いてある気がした。
その反応を見て心臓の裏にひやりとした感触が走る。きっと彼は顔どころか、自分が教えた名前すら覚えていないのだと分かったから。
(はは……こんなに分かりやすい顔する奴だったんだ)
何が曖昧な微笑みだ。指先の熱さを、優しさや情だと勘違いした、過去の己の単純さが恨めしくなった。
「っと、そうだったな。約束の時間ギリギリかっ。すまん、そろそろ行かせてもらう。本当に助かった」
裏地が青い白衣の裾を翻して、青年は黒渦団本部へと続く道を歩いて行った。男は一度だけこちらに軽く会釈をしてから、付き従うように自分よりも小さな背中に続く。
遠ざかる後ろ姿を呼び止めようとしたが、呼びかける名すら知らず声が出なかった。
「名前を知らないのは、俺も一緒か……」
冷え切った宿屋の受付台帳に書かれた、あの流れるような筆跡の文字の綴りを、青年は終ぞ思い出せなかった。