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<シエラの日常>


「これ、五番テーブルにお願いね」
「はい!」
 談笑する商人やギルドの発行する依頼を求めてやって来た冒険者。多種多様な種族、業種の人間が集い情報の飛び交う社交場……女傑モモディが取り仕切る冒険者ギルド兼酒場の「クイックサンド」。今日の客入りも上々で、店内にある席は半分以上が埋まっていた。
 女給のシエラはトレーを片手にあちらのテーブル、こちらのテーブルへと大忙しだ。馴染みの客に、ウルダハへ初めて訪れたと思しき団体。彼らの間を縫いながら歩き回り、注文をとってはカウンターの奥へとそれを伝える。たまにセクハラ紛いの迷惑な客をいなしながら、今日も彼女の日常は普段と変わらず回っていた。
 大きな不満もなく、それなりに満足な生活。クイックサンドで給仕をし、稼いだ賃金からサファイアアベニューで日々の買い物をして平民向けの集合住宅地へと帰宅。粗末ではないが決して高級でもない床について夜を迎え、荒野の向こうから朝日が昇ってまた一日が始まる。
 安定していて、少し刺激の足りない毎日。それが彼女の日常だった。

「シエラ!エールを三つ、あっちのテーブルに持っていって」
「はーい!こっちの前菜も持っていきますね!」
 ジョッキと皿を手に忙しなくテーブルを回っている。陽が落ち始めて仕事帰りに一杯引っかけようとする労働者で店はごった返していた。シエラが客の対応をしている間にも、少し古いギルドの扉が内側へ開き、新たな来訪者を迎える。
「……!!い、いらっしゃいませ!」
 その客人を目にして、シエラは僅かに声を弾ませた。頬が赤らんでいないか心配に思いながら、小走りで入り口へと向かう。そこには性質の異なる若い男性の二人組が彼女を待っていた。
 片や目立つ長身に癖のない薄い金色の髪。いつも口元に薄く笑みを浮かべたエレゼン族の青年。
 もう一人は白に近い銀髪に、揺れる耳と毛艶の良い尻尾。エレゼンの彼とは対照的にニコリともしないミコッテ族の青年。
 彼らは最近ギルドを頻繁に訪れるようになった冒険者風の二人だ。そして刺激のない彼女の生活で、唯一とも言えるささやかな楽しみそのものである。
「こんばんは〜、二人なんですけど席空いてる?」
 エレゼンの彼が先に一歩出ると、筋張った指を二本立ててシエラの前で振った。たったそれだけの仕草だが、彼女は妙にときめいてしまう。
「はい、すぐにご用意します!」
 案内したテーブルはすでに片付けられていたが、もう一度念入りに布巾で表面を拭う。「どうぞ」と二人へ向き直ると、エレゼンの彼は「ありがとう」と言ってシエラに微笑みかけた。その後に続いて、ミコッテの彼も軽く会釈をしてからエレゼンの彼が引いた椅子に座る。
(シフト今日でよかった〜!)
 グラスに水を注ぎながらシエラは顔がにやけないように細心の注意を払った。気を抜いたら笑みが溢れそうだ。なにせ彼女はこの二人の来訪をずっと心待ちにしていた。
 気づかれないようそっと二人の様子を窺う。両者ともに整った顔立ちだ。思わず小さな溜息が漏れた。
 涼やかな面立ちだが、表情が豊かなこともあって優しげな印象のエレゼンの彼。
 対して精悍よりも可愛らしい部類に入りそうな顔に反して、ツンと澄ました雰囲気のため冷淡な印象のミコッテの彼。
 対局のような二人の王子様。
(うん、素敵……)
 シエラには同年代の異性の友達や、過去には恋人だっていたが、彼らのような男性はいなかった。優れた容姿も、ウルダハの外の世界を感じさせる風貌や会話も、何もかもが新鮮で彼女の瞳には輝いて映る。
 シエラにとって二人は、味気ない砂の海で見つけたきらりと光る原石のような存在なのだ。眺めているだけでふわふわとしてどこか浮ついた気持ちになる。事務的にメニューを渡しながらも、「お近づきになれないかな」なんて、ちょっとした下心を抱いてすらいた。
 実は名前も知っている。いけないと思いつつも、ついつい二人の会話に聞き耳を立ててしまったときに知った。エレゼンの彼は「ヴァリ」。ミコッテの彼は「スフェン」。お互いにそう呼び合っていた。
(ヴァリさん、スフェンさん)
 ただ、悲しいかなシエラと二人は未だただの店員と客だった。一度も声に出して呼んだことがない名前を頭の中で反芻することしか彼女には許されない。
 一方シエラの思いなど知らないヴァリとスフェンは、二人で一つのメニュー表を覗き込んでいた。スフェンが短く何品か指差したあと、ヴァリがニコニコとあれもこれもと追加ですすめるが、スフェンは不機嫌そうに尻尾をゆらゆら左右に振るだけ。それを何度か繰り返すと、ようやく注文が決まったようだ。
 何品かの料理と果実水、食後に軽いデザートを頼んでから、ヴァリはぐるりと混雑する店内を見渡した。
「忙しそうだね。オレ達のはゆっくりでいいから」
 愛想の良い笑みを浮かべてメニューを返すと、同意をとるようにスフェンに「な?」と振った。
 ほとんど喋らないスフェンがどんな反応をするのか期待したが、彼は頬杖を突きながらシエラを一瞥すると、するりと視線を店内へ戻しただけだった。灯されたランプの煌々とした光を受けて、細い瞳孔がさらにキュッと絞られる。狩人じみた瞳だと思った。

 給仕の合間に、食事を楽しむ二人を盗み見る。美味しそうに骨付き肉を頬張るヴァリと、ナイフとフォークで小さく一口大に切ってから肉を口に運ぶスフェン。こんなところまで対照的で少し面白い。
 見れば見るほどタイプの違う二人だ。どうやって友人になったのだろうと不思議に思う。
 だが親しい仲であることに疑いはない。……でなければ、相手の髪を耳にかけたりなどしないだろう。
 肉と一緒に長い髪を食べてしまいそうになっていたヴァリを見かねて、横からスフェンの手が伸びる。遠慮のない手つきで金糸をかきあげると、エレゼン特有の尖った耳の上にかけた。
 ヴァリの目が優し気に細まる。彼にはないはずの金色の尻尾が元気よく振られている幻覚がシエラには見えた。
 そのまま嬉しそうなヴァリを放って、スフェンは何事もなかったように自身の皿に向き直る。流れるようなやりとりに、何故か時が止まったような錯覚に陥った。



 数日後、いつもと同じ夜の帳が降り始めた頃。その日はミコッテ一人が店を訪れた。

「今日はお一人ですか?」
「いや、後からもう一人来る。二人席に通してくれる?」
「かしこまりました」
 珍しいこともあるものだ。セットが当たり前のような二人がどちらか片方だけで店を訪れるのは初めてだった。
(でもやっぱり後から来るのよね?)
 空いている席にスフェンを案内しながら、シエラの頭の中にはヴァリの姿があった。人当たりの良い彼が一緒にいればいいのだが、スフェンと一対一だとどうも話しかけにくい。ヴァリがきらきらとした太陽だとしたら、スフェンは張り詰めた月だった。いつも何かを警戒するような素振りを見せる彼の周りには常に緊張感が漂っている。
 また、スフェンがシエラを邪険に扱ったことは一度もないが、彼が近寄りがたい雰囲気であることは確かな事実だ。
 そんなものだから、普段の半分以下の時間で決められた注文を受け、シエラは早々にスフェンのテーブルを離れたのだった。
(ヴァリさん、早く来ないかな)
 勝手に気不味い思いをしながらもう一人の到着を待った。その間にも店には代わるがわる新しい客が訪れる。その中にはシエラの苦手な客の姿もあった。こちらはこちらでまた違った意味合いで気が重い。こそこそと隠れるように仕事をしながら時が経つのを待った。
 しかし、シエラの小さな努力を嘲笑うように下卑た誘いが彼女にかけられる。
「なあシエラ、今恋人いないんだろ?俺にしとけよ」
(またか……)
 杯を傾けた若い男がシエラを不躾に呼び止めた。男は金払いはいいが少々質の悪いグループのうちの一人で、ことある毎に彼女にちょっかいをかけてくる厄介な客だ。なるべく別のホール担当に代わってもらっているのだが、食器を下げているところをわざわざ少し離れたところから声をかけてきた。
 シエラは羞恥と怒りで唇を引き結ぶと、毅然とした態度で男に向かう。
「お客様、何度も申し上げておりますが、その件はお断りしたはずです。また、他にご歓談されているお客様のご迷惑にもなりますので、今後はこのような……」
「なんだよ、悪いようにはしないって言ってるだろ?そんなに怒るなよ」
(こいつ……)
 シエラの気持ちなどお構いなしに男は話し続ける。流石に頭にきてしまって、もう一度声を上げようとした。
「君、ちょっといい」
「えっ、はい?」
 シエラの堪忍袋が切れそうになったそのとき、意外な人物が彼女を呼び止めた。
「カトラリーをもう一セット追加で頼めるか」
 険悪な空気を一刀のもと払うように現れたのはなんとスフェンだった。男達の存在を歯牙にもかけず、彼はただシエラだけに話しかける。
「おいおい猫ちゃんさ〜、空気読めないわけ?シエラは俺が口説いてるの?分かる?」
 苛々とした口調で男がやおら立ち上がる。逃げ出したくなるような剣呑さがその場を支配し、今にも喧嘩になりそうな雰囲気だ。
 それにも関わらずスフェンの態度は変わらなかった。睫毛の瞬く様が分かるほどゆっくりと藤色の視線を男に向けると、あからさまに呆れを含ませた言葉で嗜める。
「店員に食器を頼んだだけで口説く?……はっ、悪いのは口だけにしておけ」
「何だとテメェ……!」
 冒険者だけあって腕に自信があるのかもしれない。スフェンは男が凄んでも平然としていた。いつもの興味なさげな態度が可愛く思えるくらい冷たい眼差しが男達を貫く。まるで道端で虫ケラを見つけてしまったとでも言わんばかりだ。
「目障りだな、お前」
 そう言い放ったのは、テーブルの一番奥でずっと口を噤んでことの成り行きを傍観していた男だった。
 衣服の袖からちらりと見えた蠍の刺青……。一般人のシエラにも分かる。この男は周りの男達と別格だ。
(どうしよう!?どう見ても堅気じゃないよこのひと!)
 まさに一触即発。男の太い腕が、スフェンの胸倉を掴もうと伸ばされる。恐らく、その無骨な指先が彼の服に触れた瞬間、ゴングは鳴る。
(誰か……!!)

 だが幸いなことに、シエラの祈りが通じたのか男の手はスフェンに届かなかった。

「いえ〜い!!飲んでる!??!??」
「ヴァリさん……!」
 酒気に顔を赤らめたヴァリがスフェンと男の間に入り、腕を掴んでその暴挙を防いだ。
「うわ、何だお前!?」
「皆さんこんばんは〜!いやぁ〜、ゴールドソーサーで大当たりしちゃってさ〜、今すんごい気分いいわけ!てことで、お兄さん達に一杯奢らせてもらいま〜す!お姉さん、人数分持ってきて!」
「え?ええ!?は、はい!」
 ヴァリの勢いに押されシエラはその場から駆け出した。突然の乱入者に、火花が飛び散らんばかりであった修羅場の空気はすっかり霧散している。
「チッ、酔っ払いが……白けたぜ」
 ヘラヘラと笑ってまともな会話にもならないヴァリに毒気を抜かれたようで、男達は乱雑に椅子を倒しながら立ち上がると、暴言を吐き捨てながら店を去っていった。
 その様子をカウンターの影から固唾を飲んで見守っていたシエラだったが、男達の姿が完全に見えなくなってようやくホッと息を吐き出せた。
「もう、ほんと無茶な子達ね。いつ口を挟もうかハラハラしちゃったじゃない」
「つい……ごめんモモディ……」
 てくてくとモモディがスフェンの足元まで近寄ると、彼女はきりりと眉を顰めて彼に詰め寄った。どうやら二人は面識があるようだ。スフェンは決まりが悪そうに目を彷徨わせると、押し出すような声で自分が軽率だったと謝った。
「あの、モモディさんこのひとは……」
「分かってるわ。でもいいのよシエラ。ヴァリが来てくれなきゃ流血沙汰になってたかもしれないもの。スフェンったら、これで案外喧嘩っ早いんだから。これくらいが丁度いいの」
 スフェンは悪くないのだと伝えたかったが、モモディはそれでも、と彼女を制した。
「まあ、今回はいいわ。これも“仕事”のうちでしょうし。さあ、その酔っ払いさん重いでしょう?そこの席に座らせて休ませなさいな」
 それだけ言い残してモモディは自身の仕事に戻っていった。
 その言葉に従い、半分溶けた状態で背にしなだれかかってくるヴァリを引きずって、スフェンは手近な椅子に腰掛ける。その隣の席に座らせたヴァリは、テーブルにうつ伏せの状態になって何やらむにゃむにゃと口の中で呟いていた。「すふぃ」と、しきりに呼んでいる。どうやらスフェンの事のようだ。
「あの、よかったらお水を……」
「ああ、ありがとう」
 冷たい水を差し出すと、スフェンはヴァリを覗き込んで「飲めるか?」と耳打ちした。
「こんなになるまで……たくさん呑んでらしたんですね……」
「いや、このくらいならニ杯程度だと思うんだが……単純に弱いんだ、こいつ」
 それなのに何故、とスフェンが首を傾げる。すると、ヴァリが焦点の合っていない目で顔を上げた。勢いよくスフェンの方を向くと、長い両手をあげて彼に抱きつく。
「すふぃ〜〜、オレ頑張ったよ!情報!掴んだ!ひっく、東地区の酒場で」
「別行動ってそういう……だからわざわざ飲んできたのか……」
「早く仕事終わらせたいからさ〜」
 褒めてくれとすり寄るヴァリを押さえて、スフェンは彼が掴んできた情報とやらが書かれた紙切れをまじまじと読んだ。
「なるほど………………胸糞悪い」
「え?」
「いや、何でもない。聞かなかったことにして」
 そう言うと、スフェンは険しい表情でメモを握り潰した。
「……ねえ君、今日はいつ仕事が終わるんだ?」
 自分の胴回りに巻き付いたままうとうとし始めたヴァリの頭に手を置きながら、スフェンはジッとシエラを見上げた。
「私ですか?今日は閉店まで残る予定ですが……」
 退勤時間を聞かれて少しドキリとした。
「そう……。……その、上手くやれなくて、悪かった」
 スフェンが謝る必要などないと感謝の意を伝えたが、彼は考え込むようにしてそれきり口を閉ざしてしまう。
 スフェンの態度に首を捻るシエラだったが、彼女は未だ勤務中だった。いつまでもそうして彼らの傍にいるわけにもいかず、後ろ髪を引かれながら自分の仕事へと戻っていった。

 心の中に引っ掛かりを残しながらもその日の業務をすべて終えたシエラは、私服に着替えてクイックサンドの裏口から店を後にしようとした。今日は色々なことがあり過ぎて疲れていたので、寄り道せずに真っすぐ帰るつもりだ。
(ヴァリさん大丈夫かな……)
 店が落ち着いてきたのを見計らって彼らがいた席を見たが、いつの間にか二人の姿は消えていた。モモディに聞くと、ふらつくヴァリをスフェンが支えて併設する宿屋に運んだらしい。
 そこでふと眼前の暗闇に目をやる。表通りに比べて街灯が少なく、時間的にも人気がない。その灯りの乏しい裏道の影にきらりと光る眼が浮かんでいた。次いでそれが人であることに気づく。
 影はゆらりとシエラへと近づき、彼女は怯えから一歩後ろに下がった。冒険者ギルドは大通りに面しているため治安は良いほうだったが、夜ともなれば物取りなどが辻に現れることもある。荷物の入ったカバンの紐を握る手に力入った。
「終わった?」
「す、スフェンさん!?」
 身構えていた体から力が抜ける。闇夜から現れたのはなんとスフェンだった。
「もしかして、私が終わるのを待って……?」
 そういえば仕事の終わる時間を聞かれたことを思い出して尋ねると、スフェンはこくりと頷いた。寸前までこみ上げていた恐怖が、驚きと戸惑い、そして高揚へと変わる。
「家の近くまで送る」
「え、でも、なんで……」
「あの男達が腹いせに何か仕掛けてくるかもしれない。用心するに越したことはないから……あれは僕の責任だ」
 スフェンは先ほどのやり取りを悔やんでいるようで、彼女が安全に帰れるようにと、護衛を申し入れてくれた。彼の耳が僅かにしんなりと垂れ下がる。
(わ、耳が……)
 思わず声を上げてしまいそうになるのを必死に堪える。初めて見る彼の可愛らしい一面に触れ、シエラは色めき立った。
「そういうことでしたら……お願い、します」
 シエラの答えを聞くと、スフェンは一つ頷いてくるりと彼女に背を向けた。垂れていた耳がピンと張る。
 月明りの下、数歩先を行く彼が振り向く。その横顔はいつもより優し気に見えた。
「行こうか」

 こんなにも胸がときめくのはいつぶりだろう。シエラはとくとくと鳴る胸を押さえながらスフェンの後ろに続いた。



 ザナラーンは晴天の多い地域だ。今日のウルダハも気持ちの良い快晴だった。乾いた風が穏やかな午後の街を吹き抜けてゆく。
 一方、雲一つない青空に反して、クイックサンドの一角には鬱々とした空気が漂っていた。
「はあ……」
 シエラがバックヤードでどんよりと溜息を吐くと、同僚達はやれやれと首を横に振った。日を追うごとに彼女の気分は下降の一途を辿っている。その理由を知る彼らだったが、余人にはどうしようもない事だった。

 ほんの一週間前まで、彼女はこの世の春とばかりにそれはそれは上機嫌に毎日を過ごしていた。
 きっかけはもちろんスフェンだ。憧れにも近い感情を抱いていた彼に家まで送ってもらった出来事は、シエラの平凡な日常に生まれた非日常である。
 初めて面と向かってきちんと話した彼は想像と違っていた。やはり口数は少なくて、ともすればやや無愛想な印象だったが、その実とても優しいひとだ。遅くまでシエラの仕事が終わるのを待って、安全に送り届けてくれたのだから。
 そのうえ、シエラとしては何とかして家に招いてお茶の一杯でもご馳走したかったのだが、スフェンはその誘いを頑として断った。顔見知りとはいえ、一人暮らしの女性が軽々に男を家に上げてはいけないと添えて。
 嫌な客に絡まれて最悪な一日になるはずの夜を、スフェンが少し特別な夜に変えてくれた。少なくとも、シエラにとっては人生の中でも稀なる日である。
 これを機にもっと話せるかしら、次お店に来たら何て話しかけよう。シエラはあの夜からずっとそんなことを考えて過ごした。仕事に行くのが楽しみで、いつ入り口の扉から彼が現れるのかと待ちわびた。分かりやすく言えば、「その先」の関係を期待していたのだ。
 しかし、あれから二人はちっとも店に訪れない。二、三日に一回は必ず来ていたのに、ぱったりと姿を見せなくなった。そのせいでシエラの気分は次第に萎み、今では毎日溜息の雨を降らせて暮らしている。
「まさか、あの一件でお店に来づらいって思ってたらどうしよう……」
 スフェンはおろかヴァリも店に顔を出さなくなった。シエラと彼らの繋がりはここクイックサンドにしかない。一歩外に出れば名前しか知らない他人だった。今のシエラには店で待つしか選択肢はない。
「いい加減シャキッとしなさい」
「モモディさん…」
 シエラの姿を見兼ねたモモディがやってくると、仕事中でしょともっともな注意を彼女に促した。
「はい、すみません……。仕事に集中します……」
「ま、あの二人の事はあまり気にしないことね。依頼の都合でふらっとやって来ただけだと思うし。冒険者なんてそんなものよ。……そうじゃなくても、あの二人は止めておいたほうがいいわ」
「え……?」
 モモディは妙に含みのある言葉でシエラに諦めろと諭した。それは一体どういった意味なのだろうとシエラが首を捻ると、人生経験の豊かさを表すような微笑で女傑は呆れた仕草をして見せる。
「あんなに違う二人なのに、割れた宝石の片側どうしみたいって意味よ」



 星の瞬きを見上げるも、気分はいっこうに良くならない。どんな美しいものを見たところで、シエラの心はいつまでも曇ったままだった。
 家に真っ直ぐ帰る気にもなれず、仕事終わりにふらふらと路地を彷徨う。どこの家も木戸を締め切り、その隙間から漏れる光だけがか細い光源となって薄暗い道を照らしていた。
「はあ……今日も来なかったな」
 待ち人は未だ来ず。シエラの日常は砂色に戻りつつあった。
 最初はちょっと格好いいなと思っていただけだったはずだ。店に来たらラッキー。それぐらいの気持ちだった。
 だというのに、何日も店に現れないだけでこんなにも暗い心持ちになるだなんて。
「もうお店に来てくれないのかな……」
 呟く声にも力が入らなかった。

 コツ……。

人気の絶えた暗闇の中に、誰かの気配を感じた。普段であれば怯える場面だったが、シエラはむしろ小さな驚きと期待を感じている。いつかの夜にも似た状況に、もしやと思って彼女の口角は無意識に上がっていた。
「スフェンさん……?」
 やや声を弾ませながら細い路地に向かって呼びかける。あの晩のように、スフェンが自分を心配して会いに来てくれたのなら、と淡い希望を胸に抱きながら。
 しかし、夢など所詮はただの願望。シエラの望む人物はそこにいなかった。
「よう、シエラ。久しぶりだな」
「あんたは……!」
 シエラの目の前に現れたのは、あの晩店に訪れたガラの悪い男だった。しかも気付いけば別の男達がシエラの行く手を阻むように数人で取り囲んでいる。
 湧き上がる恐怖を必死に抑え込みながらシエラは声を荒げた。
「な、何か用!?それ以上近づいたら大声出すわよ!」
「無駄だぜ。誰も来やしない」
「そんなはずないわ!夜も銅刃団が巡回して……」
「どんな奴だろうと、金には弱いもんだ」
 男が金の詰まった袋を振って見せる。
ここはウルダハ。荒野に聳える富の象徴。けれど煌びやかな繁栄の表面をめくれば、そこには淀んだ影も確かに存在した。どこにも見当たらない警邏。掌に握らせるのにちょうど良い金。都市の警備を担う銅刃団にも腐敗が及んでいることを、男は暗に示していた。
「怖がらなくてもいいぜ。乱暴なんてしないさ。なんてったって大事な商品だ。傷物にするマネはしねえさ」
「商品ですって……?」
「お前はいい女だぜ?本当は俺がもらってやろうと思ったんだがな……お頭のお眼鏡に適ったからにはそうも言ってられねえ」
 男の言う事が何一つ分からない。けれども得体の知れない不気味さを感じて、シエラの背に怖気が走った。そうしている間にも、男達は彼女を追い詰めるようにじりじりと距離を詰める。
「大人しくしな、シエラ。俺達についてくればお前の望みだって叶うぞ?ウルダハの外に出てみたいって前に言ってたろ」
 どうしてそんな事を知っているのか、なんて、もう口にすることもできなかった。ここから今すぐ逃げ出したい。だが震える手足はシエラの言う事を聞いてくれなかった。
「俺達が叶えてやるよ。ウルダハの外なんて小せえこと言わないさ。エオルゼアの外まで”運んで”やるよ」
 商品、エオルゼアの外、運ぶ。それらの単語が意味することを察して、シエラはとうとう膝から崩れ落ちた。
(なんで……!)
 こんな日常望んでいない。これなら刺激がなくてつまらない、でも穏やかな毎日の方がよかった。
(助けてくださいナルザル様……!)
 神にも縋る思いで目を瞑る。男の魔の手が伸びる気配を肌で感じながら、シエラは人生の終わりがこんなにも早く訪れたことに絶望した。
「そうそう、そのままいい子にしてな。おい、なんか縛るもん持ってこい。……おい、どうした」
男が背後の路地に控えていた部下に声をかけるが返事はない。すると、次いでくぐもった蛙のような声がしたかと思うと、物陰に潜んでいた男が地面に倒れた。
男達に広がる動揺を察知してシエラが目を開く。その視界に、暗夜でも目を引く金髪が煌めいた。シエラは口の中で、小さく彼の名前を呟く。
「女の子一人相手に大勢とか……だからモテないんじゃない?」
「テメェ……あんときの酔っ払いか!失せな優男!お前の出る幕はねえよ!」
 仲間の一人を昏倒させた相手に男は警戒の姿勢を見せた。シエラを逃がさないように捕まえながら、今度はヴァリを取り囲めと周りに指示を飛ばす。
「そうはいかない。ようやく掴んだ蠍の尻尾だ。放したりなんてしたら怖い猫に怒られるんでね。……そうでなくとも、お前らの女性に対する態度は一度改めさせたいところだし」
 言うが早いか、ヴァリは背負った大剣を引き抜くと、重さなど感じさせないほど軽々と男達の目の前で振り切った。
「この野郎……!お前ら畳みかけろ!」
重量のある一撃に二、三人が吹き飛ばれたが、男達は怯まずヴァリに向かってきた。それぞれ剣や斧で武装した彼らは、数の力で押し勝てると思っているのだろう。四方からヴァリを攻めようと、その凶刃を振り下ろした。
 しかし、それもすべて大剣で防がれ弾き飛ばされてしまう。
「チッ。おい、術者ども出てこい!」
 物理では容易く敵わないと悟った男は、呪術者の仲間を呼び寄せた。わらわらと杖を携えたローブ姿の男が数人建物の影から現れると、ヴァリに狙いを定めて呪文を唱え始める。
「危ないっ」
 シエラの叫びが短く響き、次の瞬間には炎の玉がヴァリの手元に命中した。彼が衝撃で若干ふらつきながら剣を落としたのを見て、男達は好機だと一斉に飛び掛かる。
「……なんてね?」
ヴァリは石畳に落ちて跳ね返った大剣の柄に足先をかけると、反動を利用しながら蹴り上げる。彼の手に吸い込まれるように収まった剣を即座に構え直すと、周囲の影が陽炎のように揺らめいた。影は徐々に人の形をなし、ヴァリと背を預け合って戦い始めると周囲の敵を一蹴していく。
「クソっ」
 次々に倒れていく仲間を目の当たりにして、シエラを捕まえる男に焦りが滲み始めた。男がヴァリに気を取られている隙になんとか逃げ出せないかとシエラは機を伺う。
「いたっ」
「おい、何遊んでやがる。女一人連れてくるのに時間をかけ過ぎだ」
「頭っ!」
 シエラが抜け出そうとしたとき、背後から現れた刺青の男がそれを阻止した。ぎちっと音がしそうなほど強い力で腕を握られ、彼女は耐える間もなく悲鳴を上げてしまう。
「すいませんっ、邪魔が入りまして……」
「お前、この間の冒険者崩れか」
 男は手下の言い訳に目もくれずヴァリに向き合う。値踏みするような視線に、ヴァリは不敵な笑みで返した。その周囲には気絶して地に伏す手下が積み上がっている。
「ようやく出てきたな蠍の残党。こそこそ隠れてるから探すのに時間がかかった」
「なるほど、最近嗅ぎまわってた蠅はお前か。ちょうどいい、これ以上飛び回られちゃ鬱陶しい。ここで始末してやる」
「それはこっちの言い草。壊滅した犯罪組織の下っ端が元気に街中をうろついてるなんて見過ごせない。それに、昔取った杵柄を見せびらかすようなマネは止めた方がいい。ダサいから」
 蠍の刺青を指してヴァリが意地の悪い表情を浮かべる。男のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……状況を把握するだけの頭がないらしいな。こっちには人質がいるんだぞ。嬲り殺しにされたいなら望み通りにしてやる」
 シエラを盾にすればヴァリが手を出せないと踏んだ男は、ナイフを彼女の喉元に突きつける。
 だがシエラに恐れはなかった。何故なら、ヴァリの顔に焦りも迷いもなかったからだ。彼はちらりと頭上に目をやってから、男を憐れむように言葉を重ねた。
「あ~、かわいそ。それは選択ミス」
「なんだと?」
「お前らは今すぐ降参して大人しく捕まっとくべきだった。そうすれば軽く昏倒させられる程度で済んだはずだったのに」
 シエラを含め皆が疑問符を浮かべた。この状況で一体何が起こるというのだろうか。
 いつの間にか高い位置に上ってきた月が煌々と辺りを照らす。路地裏を覆うように立ち並ぶ建物の影が周囲に落ちた。
「ま、四半殺しは覚悟しといたほうがいい」
 いつもの笑みのまま物騒な台詞を吐くヴァリにギョッとしていると、金属が地を穿つ音とともにシエラの視界がぐるりと回った。
「口閉じてて。舌噛むから」
 自分の状況を理解するのに一寸時間がかかった。
ふわりと、自身の髪が舞い上がる。掴まれていたはずの腕は自由になっていた。すぐ近くにはスフェンがいて、シエラはその腕に抱えられている。
味わったことのない浮遊感。刹那の一瞬ウルダハの街並みが眼下に広がり、ヴァリ達を見下ろすほど高く跳んでいるのだと気付いた。
そのままスフェンは空気を纏うように柔らかく地に着地すると、シエラをそっと傍らに下ろし、片手に携えていた槍を背負い直す。
 怯える手下の男と、シエラを取り押さえていた方の手を庇って蹲る男。スフェンは二人の前に立つと、固い手甲の嵌められた拳をぎちりと握り込んだ。
「歯ぁ、食いしばれ」



 大勢の客や冒険者が入れ違いに店を行き来する。クイックサンド(流砂)の名に相応しい賑わいを眺め、これこそが自分の日常だとシエラはその平穏を嚙み締めた。

 あの後、ヴァリ達に捕らえられた男らは銅刃団に引き渡された。スフェンは銅刃団に連絡をつける際、「ついでに腐った枝葉の切り落とし方も教えてやる」と、本気とも冗談とも判断しづらい呟きを残していたが、シエラは聞かなかったことにした。
 男達の正体は犯罪組織「アラクラン」――その残党だったらしい。少し前に首領が倒され壊滅したはずの組織なのだそうだが、野心を持つ組織の生き残りがウルダハの水面下で暗躍を続けていたのだとヴァリが教えてくれた。
アラクランは組織の再生を目論み、資金を集めるためあらゆる非合法な手を使っていた。シエラを攫おうとしたのも、資金源の一つである人身売買のためだ。
ヴァリとスフェンは彼らの非道を暴くため、黒渦団の依頼を受けて敵の潜伏先であるウルダハの街を調査していたという。クイックサンドに頻繁に訪れていたのも、店に怪しい客が出入りしていないかチェックするためだった。
シエラが男達に絡まれたあの日、スフェンは相手の腕にアラクランの証である蠍の刺青を発見して、彼らに目をつけていた。男達を泳がせ決定的な犯罪の瞬間を捕らえるため、クイックサンドからしばらく離れて様子を伺っていたらしい。まさかシエラが巻き込まれるかたちになるとは誰も予想していなかったが、大きな怪我もなく助けられてよかったと二人は彼女の無事を喜んでくれた。

 二人組の冒険者を迎え入れるため、店の扉が大きく開く。昼時を少し過ぎた店内は穏やかな午後の空気が流れていた。
「ヴァリさん!スフェンさん!いらっしゃい!」
「こんにちは、シエラちゃん」
「どうも」
 事件が解決してしばらく。前ほどではないが、二人はときたまクイックサンドを訪ねてくれている。店員と客の関係に変わりはなかったが、数週間前より親しく話せるようになってシエラは純粋に嬉しかった。
 今日の二人は武器も持っていなければ装備もない。シャツやサンダルというラフな格好だ。それを問えば、今日は休みなのだといつもよりいくぶん和らいだ雰囲気のスフェンが答えた。
「今日はあそこの席でもいいかな?」
ヴァリが石柱の影に据えられた奥の席を指差した。以前は店内の客を観察する目的で見通しのいい席ばかり選んでいたようだが、プライベートで訪れるようになってからはああいった目立たない席を選んでいる。もちろんと了承を示せば、二人は連れ立ってテーブルへと向かった。
ヴァリはいつものように椅子を引いて壁際にスフェンを座らせると、店側に半分背中を向ける形でその隣に陣取った。まるで大きな体でスフェンを隠すように。
「スフェン何にする?今日は仕事じゃないし、ちょっとだけ飲んでいい?」
「ほんの少し飲んだだけでベロベロの奴が何言ってるんだ。ダメに決まってるだろ。その後世話しなきゃいけない"俺"の身にもなれ」
「あー……その節はご面倒をおかけしましたぁ……」
「……それから、誰が怖い猫だって?」
「げ、スフェン聞いてたの……」
注文票を構えて二人の傍に立っていたシエラは、初めて聞くスフェンの砕けた口調に目をぱちくりとさせた。
(”俺”……!本当に仲がいいんだな……)
 仕事中ではないためだろうが、二人ともリラックスした様子でいつもより交わされる会話も多い。
「これ食べたいな。あ、でも一緒に入ってる緑のやつスフェン嫌いだっけ。ね、葉っぱは俺が食べるから頼んでもいい?」
「いいよ。これも頼んで」
「了解。シエラちゃん、これとこれ……あとこの間食べた肉料理!あれもお願いします」
「はい!しばらくお待ちくださいね」
 シエラはくるりと踵を返してカウンターへと注文を伝えた。

 戻ってきた彼女の日常。安定していて、少し刺激の足りない毎日。そこにほんの少しのきらめきが二つ。これで充分だった。
 もう少し欲張るとしたら、彼らとこの先も良い関係を築きたいと思う。
(お仕事がないときに遊びに誘ってもいいかな……!?後で声かけてみようか……)
 料理を配膳しながらシエラの頭にはふわふわとした妄想が浮かんでいた。二人が食べ終える頃合いを見図ろうとして、ちらりと奥のテーブルへ視線を向ける。
(あ……)
 柱に半分隠れたその向こう。食事を楽しむ二人。珍しく薄っすらと微笑むスフェンと、満ち足りた顔のヴァリ。
ヴァリの手がスフェンの頬をそっと引き寄せる。僅かに傾いた顔に唇を押し当て、こめかみや目元に触れるだけの口付けを送ると、最後にピンと立った獣の耳に向かって、吹き込むように何事か囁いていた。途中まで気にも留めずパンを咀嚼していたスフェンが、テーブルの下でヴァリの足を小突いている。こちらから顔は窺えないが、ヴァリが低く笑ったのをシエラは聞き取ってしまった。
「ええっと……」
 仲が良ければあれくらいするか、なんて惚けたことは言えなかった。
これまで感じていた小さな違和感がパズルのピースのように組み合わさり答えを形作る。その解答はすとんとシエラの胸に落ちるとともに、モモディの「割れた宝石の片側どうし」という言葉を思い起こさせた。
(なる、ほど……)
二人の間にある特別な空気。それを感じないシエラではなかった。ちょっと外の空気を吸ってくると同僚に伝えて晴れ渡る空を仰いだ。そういえば二人が身に着けているイヤリングは同じ石だったなあ、なんて遠い目で浮かぶ雲を視線だけで追う。
「ふう……新しい恋人でも探そうかな」
 どこかに伝手はなかったか。できれば冒険者以外の男性と出会いたい気分だった。
 きらりと光らなくてもいい。特別でなくとも、平凡だって構わない。ただ自分を好きになってくれるひとがいたらそれでいいのだと、シエラは妙に悟った気持ちで伸びをした。切り替えの素早い性分でよかった、と後の彼女は語る。

余談だが、彼女の執筆した金髪の冒険者と銀髪の冒険者のロマンス小説が一部の読者から人気を博し、将来的にウルダハの一等地に御殿を築くことになるのだが、それはまた別のお話。