<スフェン・ナクシャトラのとても長い休日>
薄らと浮上する意識の向こう側に、朝の気配を感じる頃。スフェンは白いまつ毛を震わせ、パチリと目を覚ました。自身を抱き込む長い腕の下からゆっくり抜け出すと、ベッドから下りて大きく伸びを一つ。これが彼の一日の始まりを告げるルーティーンだった。
軽くストレッチをして体を起こし、動きやすい服に着替えるとリビングの窓から天気を確認する。まだ東の低い位置にある太陽の光に目を細め、靴紐を締め直すとジョギングのためゴブレットビュートの石畳を蹴って走った。
最初はゆっくりと、そして徐々に体のエンジンをかけてスピードを上げる。乾いた熱気を吸い込み、吐き出す息はさらに熱い。居住区を何周かしたあと、最後にナナモ大風車へと続く長い階段を駆け上がり、今度はクールダウンのため速度を落として下って行く。家の前で大きく息を吐き、額から流れる汗を拭った。
着ていた運動着を洗濯籠に突っ込むと、ぬるま湯のシャワーで汗を洗い流す。良い匂いがするからと言って恋人が買ってきた石鹸を泡立てて、全身をやや雑に洗ってから浴室を出た。棚からタオルを引っ張り出して髪と尻尾の水気を切って着替え直していると、ベッドルームから人の動く気配を感じたので脱衣所から顔だけ出して様子を窺うが、まだヴァリは起きたわけではないようだ。ベッドの周りにかけられたカーテンの隙間から、巨体が寝返りを打ってうんうん言っているのだけが見えた。
身支度を終えるとキッチンに入って朝食の準備を始める。少し厚めに切った食パンにバターを塗ってトーストを数枚。朝食用にカットして冷蔵室に入れておいた野菜でサラダも作る。甘くないアプリコットジャムを隠し味に入れた、すもものドレッシングの瓶も一緒に出しておく。鉄製のフライパンに油を薄く敷いて、煙が立つまで軽く熱したあとは、ロース肉のベーコンを使ってベーコンエッグを焼く。
すると、じゅうじゅうという音と香ばしい匂いが部屋に漂い始めた頃に、階下から足音が聞こえて金色の頭がまず見えた。まだ少し眠そうなヴァリがのそのそと起きてきたようだ。
「おはよ……じゅんび、おれもやる」
「おはよう。そしたら皿と食器」
「うん……」
ぼんやりとしながら皿を並べるヴァリを横目に、フライパンの火を止めてしばらく余熱で卵に火を通す。その間に牛乳と冷たいお茶がそれぞれ入った容器をテーブルまで持って行った。仕上げにフライパンからベーコンエッグを上げて皿に移せば朝食の完成だ。
「いただきます」
「いただきます……」
スフェンに倣って、声に覇気のないヴァリも食事を始めた。どちらかと言えば朝に弱い彼だったが、これでも仕事の日はいくらかマシなのだ。休日になると緊張の糸が緩むのか、毎回こんな調子だった。
朝食の片付けはヴァリの担当だ。スフェンは食べ終わった食器だけ下げると、雑誌を手に階下のソファに座って食後のまったりモードに入る。愛読しているのは経済情報誌『ミスリルアイ』。FCの新しい仕事を探すのにもこういった情報は欠かせないのだ。グリダニアの『週刊レイヴン』もときどき読んでいる。ゴシップ誌ではあるが、鮮度の高いニュースが多いため興味深い記事も中にはあって侮れない。
「マテリア高騰………『経済界紛糾!マテリアを巡る動向の今』か。最近高いと思ったら……」
どれくらい時間が経っただろう。一通り紙面に目を通し終わると、いつの間にか片づけを終えたヴァリが隣に座ってお茶を片手にじーっとこちらを見ていた。だが、これはいつもの事なので大して気に留めないスフェンである。立ち上がるついでにヴァリの頭に軽く手を置くと、溜まった家事を片付けるぞと声をかけた。
午前中に二人で洗濯や掃除を終え、マーケットで夕食の材料を買ってから家に帰る途中、屋台から香る美味しそうな匂いに釣られて魚のフライとスパイスのサンドを買って昼食にした。噴水の縁に座って果実水と一緒に平らげる。ヴァリはスフェンのものとは味付けの違うサンドを頼んでいたらしく、途中でこちらに差し出してきたので一口貰った。余談だが、この時ヴァリは終始ニコニコとした笑みを浮かべていた。
腹ごなしもできて満足した状態で帰ると、午後の穏やかな微睡に襲われる。買った食材を冷蔵室に詰めると、スフェンはリビングのソファベッドに吸い込まれていった。乱雑に履いていた靴を脱ぎ捨て、体を丸めて瞼を閉じる。ヴァリがベッドで寝たらと言う前に、すうすうと健やかな寝息を立てた。
このスフェンなのだが、実は好んで頻繁に昼寝をする。休日のシエスタはもちろん、デスクワークの休憩中も時間を作って午睡に勤しんでいるくらいだ。よく食べ、よく動き、よく眠るのが健康に良いから……というのは後付けで、食事も運動も睡眠も単純に好きだからだった。何を隠そう、リビングに置いてある白いソファベッドも、導入したのはスフェンである。
昼寝をしないヴァリとは逆に、スフェンがこのソファベッドの上で過ごす時間はそれなりに長い。
視線を感じて目を覚ますと、薄暗い室内には傾いた陽が差し込んでいた。近くの椅子には、装備の手入れをしていたのか鉄の臭いを纏わせたヴァリがいて、穏やかな眼差しでスフェンを見つめている。
その後は二人で夕食作り。手伝いたそうにキッチンの周りをうろうろしている大きな犬に対して、適当にいくつか仕事を割り振ると、いそいそと野菜を千切ったり、人参の皮を剥いたりしていた。
休みの日の夜は少しだけ手の込んだメニューにする。前々からタレに漬けておいた肉を使ったり、雑誌の料理欄で見つけた一品を作ってみたり、時間に余裕のある時にしかできない料理を作るのだ。これはヴァリと共に暮らすようになってからできた習慣だった。一人暮らしの時分は、そこまで食事に時間を割くこともなかった。
食後は階下のソファで茶を飲みながら、しばらくヴァリと他愛のない会話をして過ごす。明日の天気、装備の事、仲間達の引き起こした珍事。日常的な内容ばかりだったが、ヴァリはいつも幸せそうに相槌を打っていた。大袈裟な奴だ、とスフェンは思っている。
その日によっても違うが、だいたい先にスフェンが風呂へ入るのがナクシャトラ家ではお決まりの順番だ。
夜は朝よりも丁寧に洗うのがスフェンの常だった。ちなみに、尻尾は体を洗う石鹸ではなく、髪を洗うのと同じシャンプーやトリートメントを使って地肌まで優しく揉み洗いする。毛足が長いためよく洗わなければならない。
ピンク色の耳の内側まで優しく拭き洗いして、最後にぬるめのお湯に浸かる。熱い湯はあまり好きではなかった。まったりと溶けるように浴槽へ沈んでいると、少しうとうとして危うく眠りそうになる時もあるので、長湯しないようにとヴァリには心配されている。
寝巻きは絶対に肌触りの良いものと決めていた。清潔で洗いたてのそれに脱衣所で着替えてから、待っているヴァリと交代すると、寝る前に軽くブラッシングをする。動物の毛でできたブラシで髪はもちろん、尻尾の毛を念入りに梳く。細く長い毛は絡まりやすいため、手入れが欠かせないのだ。季節や調子によっては保湿クリームをつけたりする。これは昔からスフェンの母がやっていたことであり、彼にとって完全に生活の一部、習慣となっていた。
そうこうしていると、烏の行水もかくやという早さでヴァリが風呂から出てくる。彼は毛先にブラシを当てているスフェンを眺めて、視線で自分にもやらせてほしいと訴えてくるのだが、それを軽く流して手入れを終えると、明日の仕事に関する書類を手にベッドへ入った。
「仕事は明日になってからしようよ」
布団を捲って隣にやってきたヴァリが苦言を呈する。
「明日からの依頼をもう一度確認しておきたいんだよ。しばらく立て込むから、スケジュール調整しないと……」
「忙しくなるなら、なおさら休まなくちゃ。これは仕舞おうね」
「あ、おいっ」
書類をヴァリから取り上げられ脇机に置かれる。それを取ろうとしたが、掛け布団を上から掛けられベッドに押し込められたので、スフェンはしぶしぶ枕に頭を埋めた。
「歯は磨いたし、お風呂にも入って寝る準備はできてるんだから、もう寝ちゃおうよ。文字なんて読んだら目が冴えちゃう」
そう言う間に、ヴァリは照明を少しずつ落としていく。カーテンを束ねていた紐を解いて帳を下ろすと、ベッドルームを薄暗くも柔らかい闇が包んだ。
視界が暗くなると、一気に眠気がスフェンの瞼を押し下げる。布団の温かさと柔らかさを心地よく感じながら、眠りの淵へと誘われていった。
「スフィ?……もう寝ちゃったかな?」
ヴァリが顔を覗き込むのが気配だけで分かった。それに応えようとするが、もう体が動かない。尻尾の先だけが布団の中でピコっと返事をした。
「おやすみ、スフィ」
小さなリップ音と同時に、頬へ柔らかな感触。大きな手が頭や髪を撫ぜるのを感じながら、あとはとろとろと夢の中へと落ちていく。
スフェンの休日はこうして過ぎていくのであった。
*
数週間後のFCハウス。疲労のため青い顔をしたスフェンがエドヴァルドとハンナの報告を受けているのだが、相手がそんな状態では二人も話に集中できないでいた。
立て続けに舞い込んだ依頼やギルドへの報告、なかなか捕まらないロマリリス、天候不順や面倒な依頼主、その他諸々の事情が重なり、ここ数週間スフェンはデスクに張り付いて仕事ばかりしていた。適性があるためFCの事務仕事をよく行う彼だったが、元来はエドヴァルドやウナギのように体を動かす方が性に合っているタイプであるため、余計にストレスが溜まっているようだ。
「すーさん今日はもう帰ろうよ」
「死人みたいな顔してるじゃん。明日休みでしょ?早く帰ったら?」
表情を曇らせる二人に対して、デスクに辛うじて座っているスフェンは緩やかに首を横へ振った。
「……まだ、ヴァリが帰って来てない。あいつの報告聞くまでは帰れない……」
しかし、スフェンの書いている文字は瀕死のミミズのようにのたくっており、すでにまともに仕事ができる状態ではなかった。
「ヴァリ君て、長期任務中だっけ?今日帰ってくる日なんだね」
壁にかかった要員別予定表を眺めてハンナが答えた。続けて、そういえばしばらく顔を見ていなかったなあ、と呟く。
ヴァリは大口の任務のためしばらくFCを留守にしていた。本当はどこかの放蕩兎をアサインしようとしていたが、彼女の性格を鑑みた結果、最終的に別のメンバーに担当してもらった方が良いと考えた末、スケジュール面でもヴァリしか空きがなかったため、多少無理やり日程をこじ開けて彼を派遣したのである。スフェンの疲労具合は、ヴァリが不在なことも原因の一つだ。適度に休息を促す存在は、真面目なFCマスターの傍らに不可欠だった。
すると、何とも言えないタイミングで会議室の扉が開かれ、やや草臥れた風の長身が姿を現す。その瞬間、三人には見えないところでスフェンの尻尾がピッと上を向いた。
「ただいま。仕事片付いたよ」
「お、帰ってきたじゃん。おかえり」
「わーい、おかえりなさ〜い!丁度ヴァリ君の話してたところだよ」
「オレの話?」
キョトンとするヴァリだったが、スフェンの顔を見るなり足早にデスクへ駆け寄っていった。
「スフィどうしたの!?顔色悪いよ……!」
「問題ない……」
「問題なくないよ……ちゃんとご飯食べて休んでた?クマできてるし……」
ヴァリは椅子に座るスフェンの傍らにしゃがむと、血色の悪い頬に手を当てて体調を窺った。スフェンはどう見ても座っているのがやっとという様子で、一刻も早く寝かせるべきなのは明らかだ。
「向こうで簡単に依頼結果まとめてきたから、二人とも頼める?」
「了解。そっちはよろしく」
ヴァリから報告書を受け取ったエドヴアルドは、心得たとばかりに自分達の分と合わせてなんとかすると言った。スフェンとヴァリは明日から休暇だったが、ミナミやソバがいるので最悪なんとかなるだろうとの判断だ。
「すーさんちゃんと休んでね?報告書は心配しないで!」
眉間に皺を寄せながらスフェンが呻いた。
「分からないところあったら絶対ミナミに聞け……」
「もういいから、二人に任せよう。スフィ、持ち上げるよ」
ヴァリは一言声をかけると、スフェンの背中と膝裏に腕を差し入れて横抱きに持ち上げた。
「仕事……」
「ダメだってば」
腕の中でグッタリとしたスフェンは、うわ言のように書類が、締め切りが、と呟いている。相当参っているようだ。
自宅に帰ると、スフェンは何とか自力でシャワーを浴びたが、浴室から出た途端ふらふらと倒れそうになったので、ヴァリは再び彼を抱き抱えるとベッドへ寝かしつけた。本当なら食事をさせたいところだったが、今日は難しいだろう。
時刻は夕方を過ぎた頃で、就寝するにはだいぶ早い時間帯だったが、スフェンはもう起き上がれなさそうだった。デスクに向かっている時より幾分顔色はマシになったが、未だ疲労が色濃く顔に出ている。
「ゆっくり休んでスフィ」
そう投げかけると、スフェンは薄らと瞼を開け、ベッドの縁に腰掛けるヴァリへと手を伸ばした。
「悪い……お前だって疲れてるのに……」
ヴァリはスフェンの手を取ると、首を横に振った。
「オレは平気。スフィの方が酷い顔色してるんだから、オレの事は気にせず体を休めることだけ考えて」
「……無理言って長期任務押し付けただろ……そのうち埋め合わせはするから……」
「もう、気にしないでってば」
ヴァリはスフェンの前髪を優しく払うと、露わになった丸い額に口付けを落とした。
「うん、でも……スフィと長いこと会えなくて、ちょっとだけ寂しかったかな」
「ん……」
きっとそうだろうなとスフェンは思っていた。何なら帰ってきてすぐに、「寂しかった構って」とぐずるんじゃないかとすら考えていたくらいだ。だからヴァリが戻ってきたら労ってやろうとしていたが、先に自分が倒れてしまってはどうしようもなかった。
「悪いな……」
スフェンがなおもすまなさそうにすると、ヴァリはしばし考え込んだあと、「それじゃあ」と口を開いた。
「明日休みでしょ?そしたら……スフィの一日をオレにちょうだい?」
「……?俺は何をすれば……?」
「スフィは何もしなくていいよ。ただ、オレと一日過ごしてほしい」
「そんなんでいいのか……?」
ヴァリのお願いに不思議そうな顔をするスフェン。一日を共にするなんて普段からしているし、特別頼むようなことではないだろうに、という思考がその表情から読み取れた。
「スフィは本当に『何にもしなくて』大丈夫。オレに全部任せて、休んでくれたらいいから」
それじゃあ埋め合わせにならないのでは?と考えたスフェンだったが、そろそろ意識を保つのも限界だった。妙ににこやかなヴァリの顔もふにゃふにゃと歪んで見える。
「それでお前がいいなら……好きに、しろ……」
それだけ言い残すと、スフェンは半ば気絶するように眠ってしまった。ヴァリの『お願い』が、自分にとってとんでもない要求だったことにも気付かぬまま、その日は泥のように寝入ったのであった。
*
その日の朝はここ数日の中で最もスッキリとした目覚めだった。陽はだいぶ昇っているようで、カーテンの隙間から見える陽光は早朝を過ぎた時刻であることを示している。
温かいベッドで目覚めたスフェンは、仕事続きで疲労を残したまま朝を迎えた日々を振り返りながら、ごろりと寝返りを打つ。左を向くとヴァリの胸元があったので、顔を寄せて思わず二度寝しそうになった。久しぶりの休みとはいえ起きて家事をしなければと思う反面、寝過ぎたのか体が布団を恋しがって離れようとしない。
「んん……」
とりあえず体を動かそうと布団の中で伸びをすると、大きな掌が肩を抱いてきた。この時間に起きているのは珍しいなと思って見上げると、寝起きで蕩けたような表情のヴァリがこちらを覗き込んでくる。
「おはよ、スフィ」
「ん、はよ」
額に降ってきた唇を受け止めると、さらに抱き込まれる。
「珍しいな、この時間に起きてるなんて」
「昨日は早く寝たからね」
朝型のスフェンとは反対にヴァリは夜型で、眠るのがスフェンより遅いことが多い。バッチリ寝たから早起きできたと笑うヴァリだったが、スフェンが早々に寝落ちてしまったのでそれに合わせて就寝したのは明白だった。
(ヴァリも起きてるし、ジョギングは休みにして朝飯からやるか……)
スフェンが一日の工程を頭の中で組み立ててから起きあがろうとすると、自分を抱く腕に力がこもってシーツに押し留められた。
「……?」
「今日は何もしなくていいって、昨日オレが言ったの覚えてる?」
やたら機嫌の良さそうなヴァリの声を聞いて、スフェンはハッと思い出す。確か、今日一日をヴァリの好きにさせると約束したのであった。しかし、自分は何もしなくてもいいとは、どういった意味なのだろう。
「なあ、それってどういうワケだ?一日一緒に過ごすのは分かったけど、何もしなくていいって……」
「ん?言葉通りだよ。スフィはベッドで待ってて。すぐ戻ってくるから」
「あ、おい……」
困惑するスフェンを置いて、ヴァリは洗面所へと消えていく。しばらくして水道を使う音が聞こえてきたかと思うと、桶にぬるま湯を張って戻ってきた。
「はい、顔洗うのにこれ使って。タオルも持ってきたよ」
「あ、ああ……」
突然のことに戸惑いながらも、ベッドサイドに置かれた桶を使って顔を洗う。スフェンが少し濡れてしまった前髪ごと柔らかなタオルで拭う一方、ヴァリは手早く自分の着替えや身支度を終えてから、スフェンのクローゼットを探っているようだ。
「どっちがいいかな……」
ヴァリは独り言を呟きながらシャツやボトムを手に取っている。数着見比べてから、薄手の白いシャツとアイボリーカラーのアンクルパンツを持ってくると、未だベッドの上にいるスフェンの寝間着に手をかけた。
「はい、バンザイして」
「まさかお前が着替えさせるのか……?そんな子供みたいな……自分で着替えるっ」
スフェンはヴァリの手から服を奪おうとしたが、意外にも強い力で掴まれていてびくともしなかった。
「スフィの一日をオレにくれるって約束は……?」
控えめに隠そうとしているが、その目には「約束を反故にするのか」と非難する色がありありと見えた。拗ねた犬のようだと思いながら、確かに好きにしろと言った覚えがあったため、スフェンはぐっと反論するための言葉を詰まらせる。
「俺の一日を寄越せって、つまりあれか、俺のすること全部お前がやるって意味だったのか……?だから俺は何もしなくていいって……」
「うん!」
存外元気の良い返事が返ってきてスフェンは頭を抱えた。
「どうかしてる……そんな事して何が楽しいんだ……」
「オレは楽しいよ。スフィと一緒にいて、スフィのために何かするの」
真剣な眼差しでそう言われてしまうと、嫌でもヴァリが本気でそのように思っているのだと理解させられた。
(いいのかコレ?何かおかしくないか?)
内心で自問自答を繰り返すスフェンだったが、ヴァリの申し出を自身が了承した手前もあって、その疑問を口にするのは憚られた。
「はあ、仕方ないな……」
何か埋め合わせをしてやらねばと思っていたのは本当であるし、これでヴァリが喜ぶのであればと、スフェンはこの奇妙なお願いを受け入れることにした。
「ほんと?いいの?ありがとう、スフィ」
スフェンの許しが出ると、ヴァリは上機嫌で着替えを再開させた。
「今日はちょっと暑いみたいだからね。半袖シャツくらいでちょうどいいかな」
ヴァリはスフェンの着ていた寝巻きを脱がせると、白いシャツを羽織らせてボタンを下から丁寧に留めていった。
「なあ、これ下もやるのか……?」
「うん。ちょっと腰上げて」
言外に恥ずかしいのだがと態度で示したが、スフェンの意図は汲み取ってもらえなかった。下に履いていたズボンを脱がされると、着替え用の服を着せられる。ズボンを腰まで上げると、ミコッテ用の尻尾を通す穴に尾を通されて少しゾクゾクした。ファスナーを上げる音を他人事のように聞きながら、スフェンはどこか遠くを見るようにしていた。
「サンダルでいい?」
「ん」
ヴァリはスフェンの前に跪き、差し出された白い足の甲を指の腹で撫ぜると、足首にストラップのついたサンダルを恭しく履かせた。
スフェンは途中何とか自分でやろうとしたが、やんわりと動きを制されて結局一から十までヴァリの手で着替えさせられた。ここまでくると最早諦めの境地だ。
「お腹空いたよね?ご飯食べようか。実はね、今日の朝ごはんはもう準備できてるんだ」
「え、お前作ったのか!?」
「その通り……と言いたいところだけど、昨日の夜のうちに惣菜を買ってあるんだ。あ、サラダは自分で作ったよ」
味付けしない調理ならできるよとどこか誇らしげに言うので、とりあえずスフェンはヴァリの頭を撫でておいた。
「トーストとかはこれから焼くね。じゃあまずは上に行こうか」
「うわっ」
言うや否や、ヴァリはスフェンの膝裏と背に腕を回してその体を持ち上げ、急な浮遊感に襲われて咄嗟にスフェンはヴァリの首に抱きついた。
「おい!これで移動するのかっ」
「そうだよ。オレに任せて、スフィは一日王様気分でいてよ」
ちっともそんな気分になれない。ナナモを除いて、王だからってこんな移動の仕方はないだろう。
「美味しい?」
「旨い」
「よかった」
なんだかいつもとやり取りが逆転していて落ち着かない。
抱き上げられたままリビングへ上がり、テーブルに備えられた椅子にゆっくりと下ろされたかと思えば、何もしていないのに料理や飲み物が次々並べられて、スフェンは居心地が悪そうにギクシャクと朝食に口をつけた。今の気持ちは、やってもらってばかりでむず痒いのが半分、これでヴァリが何故喜ぶのか分からないのが半分だ。
「治安と流通が安定したおかげかな。ウルダハのマーケットにも新しいお店が色々増えてるよね。この料理も、新しくできた惣菜屋さんで買ったんだ」
「そうか……」
焼きたてのトーストを頬張りながら、スフェンはヴァリの話を感慨深く聞いていた。出会ったばかりの彼と今の彼はまるで別人だ。有無を言わさず自分を抱きかかえた腕といい、近所の店の変化に気づいている事といい、スフェンの家で一緒に暮らし始めた頃にいた、あのつまらない男と同一人物だとは思えない。
ヴァリが昔のままだったら、小さな商店一軒が増えた事など気づきもしないだろうし、スフェンを抱き上げるだけでもいちいち許可を取ったのではないだろうか。
これは今も変わらないが、当初から彼は優しい人間だった。そして一見すると、とても寛容であるかのようにも思える。──だが、それは少し違うとすぐに分かった。
意思がないとまでは言わないが、「我」がないのだ。いや、あるのだろうがそれを他人に示さないと表現するのが適切だろうか。ある意味では頑なだ。ヴァリは薄らと漂う、諦観にも似た空気を纏った男だった。
第一世界に渡るまで、スフェンは触れても触れても実体のない煙を掴むような思いをどこかで感じていた。一方で、それを寂しく思い始めてしまったのが、二人の関係を決定づけた一つの要因だったかもしれない。
果ての宙を越えた今なら分かる。コルシアの丘でその生い立ちを聞いて考えるにつけ、ヴァリは「自分」を押し殺して生きざるを得なかったのだろうとスフェンは推測している。
しかし、彼の育った場所や周囲の人々を実際に見たわけではないので、これは勝手な憶測だ。ヴァリがどのように見て、聞いて、感じて、考えてきたのかを他人のスフェンが正しく知る方法はない。
(でも、だとしたら……)
今のヴァリがあるのは、間違いなく仲間と共にしたこれまでの旅のおかげだと言い切れる。生きてきた環境がヴァリという人間を作ったのなら、最近の「自分」を主張し始めた彼を作ったのは、旅の中で触れ合った人々で、暁の血盟らで、FCの仲間達だ。小さな箱に押し込められていた「ヴァリ・レッドマール」の自我が、外の世界に触れて顔を出してきた。
それを何より嬉しく思う。
「……ふ」
「なになに?今何で笑ったの?」
「笑ってない。あ、そっちのフルーツも食べる」
「え〜……笑ってたのに……」
「早く」
フルーツが盛られたガラス皿を手に、スフェンは何事もないような顔でオレンジにフォークを突き刺した。今日のような戯れも、自我の発露か……と思えば、多少のおかしな嗜好にも付き合おうかと、彼は小さく息を吐いた。
食後にはまた当然のように抱きかかえられ、地下のソファに下ろされると恒例の雑誌タイムになった。ただし、いつもと違ってスフェンの定位置はヴァリの足の間だ。ソファに深く腰掛けたヴァリの前に座らせられると、『ミスリルアイ』を手渡された。
(今日はこの体勢で読めって事か……やれやれ)
半ば呆れたふうに雑誌を開く。頭の上からヴァリの息遣いが聞こえるのが妙な感覚だった。
パラリとページを捲るたび、頭上のヴァリも文字を視線で追っている気配を感じる。背中の温もりに少し眠気を刺激されながら、スフェンはいつもよりゆっくりと誌面を読み込んだ。
「『希少野菜の価格大暴落?混乱する市場』かあ……」
「冒険者の数が増えて比例して"卸し"やる奴が増えたんだろ。供給が需要を上回ったんだ」
ギルドの依頼以外で収入を得る冒険者は多い。危険地帯へ分け入ることができる彼らは、普通の商人が足を踏み入れない場所で採集を行い、商品を市場に卸す仕事を生業にしている者もいる。
「本当に冒険者増えたんだね」
「だな。ギルドやグランドカンパニー本部に行くと見ない顔の奴の方が最近は多い。……ああ、そういえば、この間は同族の新人冒険者に同期と間違えられて話しかけられたな」
「ふうん……」
初々しいものだとスフェンが言うと、ヴァリが白い旋毛あたりに頬を擦り寄せた。
「おい、止めろ」
スフェンは両耳をパタパタ動かして頭上にあるヴァリの横顔を叩く。
「ねえ、その声かけてきたのって女の人だった?男?」
「男だけど……それが?」
「別に……」
「何なんだよ……」
スフェンが身を捩ると、ヴァリは頬をくっつけたまま拘束するようその体を抱きしめた。次いで剥き出しの項に柔らかな感触を感じて、スフェンは尻尾をボンッと膨らませる。肌の上をヴァリの唇が這う感覚に、思わず立ち上がった。
「……っ!」
こうでもしないと昼から艶っぽい声を上げそうになってしまいそうだったのもあって、スフェンは羞恥に頬を赤らめながらヴァリを振り返った。
「擽ったいっ……たくっ……」
「ごめんごめん」
声の調子からなんとなく機嫌が悪そうだった気がしたが、振り向いた先のヴァリは特にそのような素振りを見せなかった。
(気のせいか……)
頬に集まった熱を冷ますようにスフェンが手で扇ぐと、ヴァリがちょいっと白いシャツの裾を引っ張った。
「今日暑いし、プール入る?明日も休みだしたまにはゆっくりしようよ」
「そうだな……」
視線を外したままスフェンは答えた。体の火照りを誤魔化すためにも、ちょうど良い水浴び日和だろう。
*
「ヴァリの奴……調子に乗って……」
スフェンはぶつくさと独り言を呟きながら、家の前に広がるプールの一角で泳いでいた。彼が進むたび、降り注ぐ眩い午後の日差しを弾きながら水飛沫が舞っている。
水辺で涼もうと決めるや否や、スフェンはまたもやヴァリの手によって着替えさせられた。しかも今回は水着である。つまり、一度全ての衣服を脱がなければならない。
スフェンは今度ばかりはと抵抗したが、そんな相手をヴァリは謎の押しの強さを発揮してまんまと丸め込んだ。脱がせる手際の鮮やかなことに加え、「オレの好きにしていいって言ってくれたよね……?」と、約束を破れないスフェンの気持ちを的確に突く一言が特に効いた。
葛藤する恋人のシャツを脱がせるなんて、ヴァリにとっては朝飯前のようだ。彼はボタンを外しながら、スフェンのまろい両の頬に口付けるほどの余裕を見せた。それがまた口付けられている相手の自尊心を刺激するにも関わらず。
結局下着まで剥かれて、白地にシンプルな模様の入った水着を着せられた。裸など何度も見せているが、それはそれとして恥ずかしいものは恥ずかしい。スフェンは首まで真っ赤になって、外に出るまで赤みが引くのを待たなければならなかった。
そうしてまた玄関先まできっちり抱えて運ばれたが、流石に外では無効だ!と叫んで、扉を開けた瞬間スフェンはヴァリの腕から飛び出し、一直線に水面へ向かって走って行ったのである。
思い出すだけでも羞恥に叫び出しそうだ。スフェンは逆上せた頭を冷やすよう、無心になって水をかいた。
ちらりと横目で水上に設けられたバーカウンターを見ると、黒い水着にパーカーを羽織ったヴァリと目が合う。戦闘関連の実用書を片手に座った彼は視線に気付いたのか、あるいはずっとスフェンを見ていたのか、すかさず空いている手を上げて応えて見せる。
すると、そんなヴァリに見知らぬ女性達が声をかけてきた。いずれも見覚えのない顔だ。ここの居住区に住んでいる者達ではなさそうだった。スフェンがいる位置から会話は聞こえなかったが、十中八九逆ナンだろう。
ヴァリは少し困ったような笑顔を浮かべてあしらっているようだ。女性達は負けじと彼を取り囲んで、何やら誘いをかけているよう傍目には見える。
「……ふん」
パシャリと水を跳ねさせてスフェンは顔を背けた。そのまま遠ざかるように青い水面を泳いで行き、深い水底へと潜る。
自分が出張って行ってもいいが、それはそれでややこしくなりそうだし、これ見よがしに濡れた尻尾をヴァリの脚に絡めるわけにもいくまい。
(そんなつまらないマネ、絶対しないけどな……)
スフェンが間に入らずとも、ヴァリなら上手くやるだろう。それに、少しくらい困ればいいのだと思った。家にいる間は散々してやってくれたのだから、これくらいの小さな意趣返しはノーカウントだ。
上から差し込む陽が、プールの底に光の模様を作りだしている。スフェンは潜りながらその輝きに沿って水中をゆっくりと泳いでいった。
いくら潜っていても息苦しくはならない。コウジン族が祀る神から賜った加護は今も健在で、どれだけ長い間潜っていても支障はなかった。
(便利な身体だ……)
冒険の過程で過酷な環境に何度も晒されて、スフェンの肉体は少しずつ強くなっていた。吹雪の雪原や、溶岩流に赤く燃える洞窟や、深海の底に聳える施設。普通に生きていたら経験することはないであろう驚嘆の数々。己の足と、仲間の支えと、多くの手助けがあってそこに至った。しかし、"ただの人間"が至るには過ぎた旅なのではないだろうかという疑念が、心の片隅にずっとある。
第一世界での戦いや、終末の騒動の中にあっては考える余裕もなかったが、こうして一時平和な時間を過ごしていると、その疑念は思考の海に浮上してきてはスフェンを不安へと誘った。──自分は今も以前と変わらぬ自分なのだろうか、と。
少しずつ自身が何か別のものに作り変わっているのではないか。誰にも言い出せない、そんな漠然とした怖れがスフェンにはあった。
グルグ火山の山頂で最後の大罪喰いを取り込み自分の身体から光が溢れてきたとき、これまでに感じた類のない恐怖に襲われ、一瞬目の前の景色が歪んだ。最終的に闇の戦士であるアルバートのエーテルを取り込み極性の均衡は保たれたが、あのまま怪物になっていたらと思うと耐え難い心地がした。
あの時スフェンは特に極性の偏りが著しく、仲間達の中でも症状がひどくて、それが不安をさらに呼び込んだ。
(もしもの話を考えたところで仕方がないのは分かっている……けれどあれは……)
自分が自分ではなくなってしまう。人である事をやめて、守るべきものを傷つけて、愛するひとを忘れてしまう。自身にとって、それは何にも勝る恐怖なのだとスフェンはあの時知った。
だからこそ、大きな困難を乗り越え、強くなるたび不安になる。自分は今まで通りの自分なのか。気付かないうちに、何か、まったく別の…………。
(駄目だな。時間ができるとつまらない事ばかり考えてしまって……)
今が幸せな分、それを失う恐ろしさが這い寄る闇のようにスフェンの心を時折掴む。
(……!)
思考の渦に飲まれそうになったとき、キラキラと揺らめいていた水中に激しい泡が立ち上った。次いで気泡の隙間からヴァリが現れ、スフェンは彼の手によって水面へと浮上させられた。
「スフィっ、大丈夫っ?」
「ごほっ、なんだよ急にっ!?」
心なしか青い顔をしたヴァリは、揺れた声で返した。
「だって、長いこと潜ったまま全然上がってこないから……心配になって……」
「はあ?水の中にいくらいても平気なのはお前も同じだろ?心配するほどの事じゃ……」
言い終わる前にスフェンは口を噤む。眼前のヴァリが、思った以上に真剣な眼差しで自分を見つめていたので言葉を失ってしまったのだ。
「そんな事関係ないよ……。オレは……スフィがどんなに強くても、何だって出来るって言われたって……何かあったらって心配するよ」
大きな掌がスフェンの剥き出しになった肩を守るように抱く。濡れた肌に触れるヴァリの体温は温かく、気づかぬうちに冷え切っていた体に熱を分け与えてくれる。
「…………」
ヴァリの腕に抱かれて、スフェンは安堵の息を吐いた。その理由を言葉に言い表すのはとても難しい。胸に去来する感情たちは、今のスフェンには整理のしようがなかった。ただヴァリのおかけで、まるで悪夢から覚めたような心地になったのは確かだ。
「とにかく、何にもなかったなら良かった……」
ヴァリも安心したように大きく息を吐き出した。
スフェンからすれば、普段からヴァリは少々心配性に過ぎる。過度に案じられるたび、自分を幼な子か何かと勘違いをしているのではないかと呆れてしまうほどだった。ウルティマ・トゥーレからの帰還後は、以前にも増して些細な事でもスフェンの様子を窺うようになりもした。
しかし、今回ばかりはその心配性に救われている。
ヴァリが隣にいる。それだけでスフェンは『自分』でいられると思った。
正しい表現の仕方が思い浮かばないが、強いて言うなら、ヴァリを通していつもの『スフェン・ナクシャトラ』が見える。そんな感覚だった。
そこではたと自分より高い位置にある肩越しにバーカウンターを見れば、晴天の空を背に驚いた様子の女性達の顔があって、そういえばプールで涼んでいる途中であったと思い出す。
彼女らはスフェンを抱き締めるヴァリを鳩が豆鉄砲を食らったような表情で見ていた。
(……まあ、いいか)
スフェンはするりとヴァリの首に両手を回して、その首筋に擦り寄った。公衆の面前で普段なら絶対にしないであろう彼の行動に、ヴァリは上擦った声を上げる。
「す、スフィっ?」
「疲れたから戻って昼寝するぞ」
スフェンはポカンとするヴァリを無視してプールサイドに上がると、そのまま彼の手を引いて我が家へと急ぎ足で戻った。
冷ましたはずの体がまた少し熱くなったが、不思議とどこか良い気分だった。
*
濡れた体を拭いてダラダラと二人で昼寝をして目を覚ましたあと、その日は早めの夕食にした。
ヴァリが事前に連絡をしていたようで、料理の配達を行なっているらしいレストランから、見計らったように出来立てのミートパイや野菜たっぷりのスープが届いたので、スフェンは随分と用意がいいなと変に感心してしまった。
腹が膨れた後は入浴なのだが、今日は絶対に一緒に入りたいとヴァリが駄々をこねたので、例の如く抱きかかえられたまま脱衣所へと向かう。
今日一日で何度も着せられたり脱がせられたりを繰り返している。恐ろしいことに、この頃にはスフェンも一連の行為に慣れ始めていた。
ヴァリは自分の入浴を適当に済ませた後、その十倍の丁寧さでスフェンの髪や体を洗った。花の匂いがするよく分からないトリートメントをつけられた髪はつるつるで、自分の髪じゃないみたいだと思って、スフェンは一房白い束を摘んだ。
次いで薄桃色の砂のようなものが入った瓶を取り出したヴァリは、それを手で掬ってスフェンの肌を優しくマッサージするよう擦り始めた。
「これなんだ?ザラザラする……」
「これはラノシアで取れた塩と花のオイルを混ぜたやつ」
「塩?なんでそんなもん肌に塗ったくるんだよ」
「これ使うとすべすべになるらしいよ」
女子供じゃあるまいしと思ったが、ヴァリが熱心に手入れをするものだから、余計なことは言うまいとスフェンは口を閉じた。
風呂から出る頃には、スフェンは頭のてっぺんから爪先までピカピカになっていた。髪はサラサラの艶々。肌はしっとりすべすべで、仄かに爽やかで甘い匂いがする。しかしながら、世話されていただけで自分では何もしていないはずなのに、全身が妙に疲れていた。
「ずっとブラッシングやってみたかったんだ」
「あっそ……」
寝巻きに着替えてぐったりとベッドにうつ伏せになるスフェンとは対照的に、ヴァリは嬉々としてふさふさの尻尾にブラシを当てている。いつもはやらせてもらえないため、念願叶ったりで嬉しいらしい。
一日据え膳上げ膳のうえ、適度な運動と午後の昼寝。最後は全身スパかと思うほどくまなく磨かれた。だというのにどうしたことだろう。肉体的には充分休養できたはずなのに、スフェンは倦怠感を感じていた。
「今日は一日ありがとうスフィ。楽しかったよ」
「ああ、おかげで貴族の令嬢にでもなった気分だった……」
皮肉混じりの言葉もヴァリには効き目がないらしく、依然として鼻歌でも歌いそうな様子で毛を梳いている。ブラシを持っていない方の手で尻尾を固定しているのだが、触れられている部分からヴァリの指の感触を感じてしまって、スフェンは小さく身じろぎした。
忙しさで最近は夜の時間を取れていなかったので、若く健康な体は些細な刺激にも敏感になっている。
「ブラッシングはもういいだろ……」
「もうちょっとだけ」
ヴァリはブラシに絡んだスフェンの白い毛を取って集めている。丸めた毛玉を指で摘むと、「ふわふわだね」と言って微笑んだ。
「あ、待って。香油があるから仕上げに少し塗るね」
「油っこいのは嫌だぞ」
スフェンは長い尻尾をくるんと丸めてヴァリの手から取り返すと、起き上がって大事そうに先端を掴んだ。
「ちょっとだけだから大丈夫。ドマに咲く椿の花から作った香油だから、サラサラだしいい匂いだよ」
小瓶を持って迫るヴァリに、スフェンは唇をへの字に曲げながらもしぶしぶ尻尾を差し出した。
「ちょっとだけだからな」
「うん、待ってね」
ヴァリは香油を数滴手にとって、優しく揉み込むように尻尾へ塗っていく。神経が通っているため、芯の部分に触れられると身震いしそうになった。根本近くまで念入りにやるものだから、あらぬ場所が切なくなりそうだ。
「せっかく用意したから、髪にもつけていい?」
「嫌だ」
「耳のとこだけ」
「……」
スフェンは耳をペタリと倒すと、無言の了承をして見せた。すかさず耳の裏の毛に沿ってヴァリが梳くように触れる。少しくすぐったかった。
「はい、お終い」
「ん……」
頭から離れていくヴァリの手からは、言っていた通り芳しい香りがした。その匂いを目で追うように見ていると、向き合ったヴァリの薄水色の瞳と視線が絡んで、二人はお互い吸い寄せられるように口付けを交わす。
「ふ……ん……」
目を閉じてヴァリの肉付きの薄い唇を食んでいると、背中に彼の腕が回ってくる。スフェンもそれに応えるよう肩へと手をかけた。
久方ぶりの睦み合いに、体は火にかけたヤカンのように熱を上げて、ヴァリから与えられる快楽を今か今かと待っている。ゆっくりとベッドへ押し倒され、ふかふかの枕に頭が埋もれたところでスフェンは瞼を開けた。
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えつけ、恋人の一挙手一投足に期待の眼差しを注いだ。
「ヴァリ……」
頬に集まる熱で薄らと肌が色づく。訴えるような瞳で見上げると、ヴァリはすっと顔を近づけてきた。
「それじゃあスフィ………………………おやすみ」
驚きのあまり「え」、という声を上げる事もできず、スフェンは額に降ってきた唇を黙って受け止めた。よもやここで就寝を促されるとは思ってもいなかったのだ。
「灯り消すよ」
ヴァリは掛け布団を引き上げてスフェンの胸まで覆うと、その隣を捲って自分もいつもの定位置についた。
(今完全にそういう雰囲気だっただろ……!?)
普段だったら察しの良いヴァリがスフェンの寝間着に手をかけているタイミングなのに、あっさりと寝かしつけられてしまった。驚愕のスフェンをよそに、灯りの落された寝室で二人は仲良く床についた状態である。今日一日やたらベタベタと引っ付いてきたので、てっきり夜は情事に及ぶものだと思っていたので逆に不意を突かれた。
口付けと触れ合いで微かに火のついた体では当然眠気も降りてはこず、スフェンは悶々と暗闇の中でヴァリに視線を向ける。
(絶対ヴァリもその気だったはずなのに……)
二人きりの時間どころか触れ合うのすら久しぶりなのだ。今晩は求め合うにしかるべき夜だろう。
スフェンはごろりと横になってヴァリの方に向き直った。彼の寝間着として着ているシャツの合わせから手を差し入れると、くすぐるように肌の上に指を這わせる。
「ん、スフィ……ダメだよ……」
ヴァリはやんわりとスフェンの手を掴むと、服の中からそっと追い出した。しかし、それに負けじとスフェンはヴァリの首筋に吸い付く。
「ちゅ……ちぅ、ちゅ……」
「ダメだってば……」
「………………何で……」
これだけ仕掛ければ普段ならノってくるはずなのに、弱いながらも抵抗を見せるヴァリにスフェンは不機嫌を隠さずに問う。すると、ヴァリは気まずそうに答えた。
「だってスフィ疲れてるし……あんまり体の負担になることはさせたくないから……」
ヴァリは起き上がって、半ば覆い被さってきていたスフェンを自分の上から退かすと、ベッドサイドのランプをつけた。灯りに照らされたスフェンの顔を観察するように見つめると、ふう、と息を吐く。
「昨日……青い顔して机に向かってるとこ見て、肝が冷えたよ。もし倒れたりしたら……」
「大袈裟だ」
「ううん、大袈裟なんかじゃないよ」
ヴァリは自分の胸にしまい込むようにスフェンを抱き締める。
「今日はね、スフィにいっぱい休んでもらいたかったんだ。スフィは放っておくと、休みの日でも朝からあれやってこれやってって忙しいし……たまには何もしない日があってもいいと思う」
家にまで仕事を持ち帰るのは特によくないとヴァリは力説した。
「今日一日で充分過ぎるくらい休ませてもらった」
実際、スフェンが家の中を自分の足で歩いた距離は数歩分しかない。呆れ気味にそう言うと、歯切れの悪い返事が返ってくる。
「でも……やっぱりすると疲れるだろうし……」
「ウジウジしつこいぞ。休んだから大丈夫だ。なにより、俺はそれほどやわじゃない。……お前がしたくないなら、話は別だけど……」
「それはない!」
「ならいいだろ」
食い気味に否定してきたヴァリをいなして、スフェンは目の前の頬に触れるだけのキスをした。
ヴァリとてその気がまったくないわけでもないのは最初から分かっていた。でなければ、あれほど熱を孕んだ口付けをするはずもない。
「あれだけ一日好き勝手しておいて、お前も変なところで気にしいだな。ここまでやったんなら、何しても一緒だろ」
「う……」
「それに……体の事を考えるなら運動が少し足りないくらいだ」
意地悪くそう言うと、ヴァリはしばしの葛藤を見せた後、観念したように向き直ると丁寧すぎるくらいの所作でスフェンをベッドに押し倒した。
「ゆっくりするからね……!疲れたら絶対言ってよ、途中でも止めるから……」
「絶対そうはならないから安心しろ」
さあやれと言わんばかりにスフェンがヴァリに身を任せると、衣擦れの音をさせながら寝間着のボタンが一つずつ外されていった。
*
自分の手入れした場所を確かめるように、ヴァリの唇は仰向けになったスフェンの顔からつま先まで余す事なく触れていく。寝巻きの前を開き、下履きは全て抜き取られた。首筋、鎖骨、胸元、腹、腰、太腿、ふくらはぎ、足首と、順番に唇と舌が滑る。足の裏を手に持たれて、甲に口付けられると妙に気恥ずかしかった。
普段よりもたっぷりと時間をかけて、全身触れていない場所などないほど執拗なまでの愛撫。焦ったいなと思いながらも、スフェンはヴァリの指や口が通った場所から順番に火照りを帯びていくのを感じていた。
「ん……」
胸の色付きを指先で摘まれ、擦って捏ねられると、先端が固くなっていく。もう片方は舌で舐られ、時おり強く吸われるのだが、その度に腰が浮きそうになった。
ヴァリの前戯はいつになく念入りで、スフェンからすればしつこいくらいだ。今日はヴァリの好きにさせようと決めているため口も手も大人しくしているが、普段ならとっくに急かしているところだった。
ヴァリは直接的な部分には触ってこない。体中を愛撫されてスフェン自身は芯を持ち始めていたが、緩い快楽では解放には至らないでいる。
「ふ……ぅ……」
強く摘まれたかと思えば、今度は触れるか触れないかの触れ方で、先端に指の腹が掠めていく。実際には触っていないにも関わらず、ヴァリの節くれだった指が肌に近づくだけでそこからじわじわと快楽を感じるような錯覚にスフェンは陥った。
(触ってないのに……っ)
指で責められている左胸に気を取られていると、右を舐るヴァリと目が合った。
「っは、気持ちいい?」
顔を上げて問う相手になんと答えるべきかスフェンは悩んだ。それに、つい今しがたまでその口に含まれていた自分の胸がてらてらと光っているのが見えて、顔から火が出そうになる。悩んだ末、スフェンは曖昧に頷くという方法でヴァリに答えた。
早く前を触ってほしい気持ちはあったが、それを強請るのは羞恥が勝って無理だ。そんなスフェンの気持ちを知ってか知らずか、ヴァリはスフェン自身に触れないままベッドサイドからローションを取り出す。
「左脚上げて……そう、ちょっと開いて」
スフェンは頬を染めながら言われるがまま脚を開く。ヴァリはボトルの中身を掌の上で温めると、開かれた脚の付け根から徐々に手を弄らせ、奥の秘所までたどり着くと滑った液体を塗り込んだ。
「あっ」
「冷たかった?」
「い、いや……」
期待したような声が出てしまったのを隠すようにスフェンは顔を背けた。
ヴァリは後孔を湿らすようにローションを塗り込むと、ついで性器との間、会陰部分を指先でトントンと突いた。後ろを慣らすのかと身構えていたスフェンだったが、思っていた場所と違う部位を触られて一瞬ビクリと体が震える。
軽く突いたり、押したり、マッサージするように刺激されると、振動が伝わって下半身の内側に切ない疼きが走った。すぐ中にある前立腺が外から押される感覚に、スフェンはとうとう嬌声を漏らした。
「く……う……ふっ……」
ヴァリが指を動かすたび、それに合わせて吐息混じりのごく短い声がスフェンから上がる。
「あっ、あぁ、それっ、だめっ」
「うんうん、ここはちょっとにしようね」
スフェンは知らなかったが、あまりやり過ぎると最初からドライオーガズムで絶頂する可能性があったので、ヴァリはひとしきり会陰部や睾丸の付け根を愛撫すると、いったん手を止めた。
スフェンは強制的に性感が高められた体の熱を持て余し、白い胸を上下させて荒い呼吸を繰り返している。ヴァリはそんな恋人の様子を窺いながら、今度こそ後孔に中指を挿し入れる。
(久しぶりだからかな、思った以上にキツい……)
指を奥に潜り込ませると、押し返すように締め付けてくる。内部を傷つけないために、優しく熱い肉壁を解していくが、久しぶりの行為であるためか中は閉じていた。これは時間をかけて解すしかないと判断して、口付けをしたり他の場所を触ってスフェンの気を逸らしながら、後孔が潤んでヴァリ自身を受け入れられるようになるまで、根気よく解していく。
丹精込めて塗り込んだおかげで、体温が上がったスフェンの体からは芳しい香りが漂ってくる。ほんのりと甘い花の香りと、スフェンの肌の匂いが混ざっていて、ヴァリはクラクラしそうだった。
萎えてはいないかとスフェン自身を確認すると、幸い芯の固さは失われていない。後ろを解す指も二本、三本と順調に増えている。中で指を曲げてコリコリとした部分を引っ掻くと、スフェンの体は陸に上げられた魚のように跳ねた。
「んっん、ぁっ」
「スフィ、舌出して」
「ん、あ……」
無防備に差し出された舌を甘く吸いながら口付けると、内部が締まった。その間も、ローションの滑りと腸液が合わさって、ヴァリが指を抜き差しするたび後孔からは淫猥な水音が響く。
長い時間をかけて施した愛撫のおかげで、スフェンの体はすっかりヴァリを受け入れる準備ができている。直接的な刺激があれば、今すぐにでも達してしまいそうだった。
「はぁ……はぁ……」
ヴァリは熱い吐息を吐き出すスフェンの前に位置取ると、震える両脚を持ち上げて下半身同士を合わせた。スフェンの痴態を前にして猛った自身と、先走りを垂らしている彼の性器を数度擦り合わせると、とても気持ちよさそうな声が聞こえる。
「いっっ……はっ、あつっ……」
「スフィ……挿れるよ、力抜いて……」
「……っ」
合図と共に中へと押し入ると、充分に慣らしたとはいえやはり狭く、一番太い部分で一度止まった。スフェンも貫かれる衝撃に耐えているのか、先程とは打って変わってシーツを握りしめて細い息を吐き出している。
「ふ、……スフィ、大丈夫?」
「へい、き、だっ……」
そのまましばらく動かずに様子を見た。少しすると慣れてきたのかスフェンの体から力が抜けて、ゆっくりとではあるが奥へと腰を進められるようになった。
「辛かったら言って?無理しないでね」
「ん、してないっ……んっ」
何とか時間をかけて一番奥まで挿入すると、壁に当たる感触がした。奥を小刻みに刺激するよう軽く腰を揺らすと、いつもよりだいぶ早い段階で快感を感じているのか、スフェンが乱れた声で喘ぐ。
「あっ、奥にっ、あた、当たって、んぅ」
「んっ、気持ちい?スフィ?」
「い"っ、やばっ、でるっ」
「一回いこうね……」
腰を動かしながら口付けると、スフェンはくぐもった声をヴァリの口の中で漏らして果てた。久しぶりの情事だったが、性感を高めた状態での行為だったため早々に達してしまったようだ。
「はっ、はっ、……ふっ」
飛び散った白濁がヴァリの腹を汚した。絶頂の余韻に浸っているのか、スフェンは虚な瞳で天井を眺めている。しかし、入れたままのヴァリが腰をスライドさせると、息を吹き返したように目を見開いた。
「あ"っ、ま、いったばっかっ……!」
言葉では拒絶を示すスフェンだったが、彼の体の隅々まで知り尽くしたヴァリはそれが本心からの静止でないことを悟っていた。達した直後の締め付けに持っていかれないように集中しながら、今度は浅い部分を突く。奥も反応は良いが、スフェンはここを責められるのが好きだった。
「はっ、それっ、やっ……ヴァリっ」
押さえているヴァリの手の中でスフェンの腰が反り返る。雁首の突起が前立腺の近くをゴリゴリと圧迫するたび、ヴァリの鼓膜をスフェンの濡れた鳴き声が打った。
内部が熱く溶けてきたのを見計らって、揺さぶりを強くする。ベッドヘッド側にスフェンの体がずり上がってしまいそうになると、腰を掴んで引き戻した。快楽を逃す先がないため、スフェンはなす術もなく絶頂後の過敏な体に快感を植え付けられる。
「〜〜っ♡ーーっ♡」
ヴァリもヴァリで、久しぶりの逢瀬にいつもより早く限界が近づいていた。それでも、少しでも長くスフェンの中でその熱を感じていたいと願って、必死に己を律している。
大きなベッドが振動でギシギシと音を立てた。
「スフィっ……」
ヴァリは徐々に速度を落としていき、ゆっくりと腰を動かしながらスフェンの下腹部を掌で軽く押さえる。すると、中と外から受ける圧でさらに快感を感じるのか、肉壁が切ないくらいヴァリ自身を締め付けた。
「うっ……」
「あっ、はら、なんでっ、こん、なっ……!いぃ……っ」
スフェンの尻尾が膨らみ、絶頂の兆しを見せる。堪らなくなったのか、ヴァリの背中に手を回すと肩甲骨のあたりに爪を立てた。薄く血が滲む痛みと、下半身に押し寄せる快楽が混ざり合い、ヴァリの心身を激しく刺激した。
「くっ、スフィっ……」
「ひっあ、ぁ……〜〜っ」
最奥まで腰を進めたところで、耐えきれなくなってヴァリは果てた。スフェンを抱き締めながら、一滴も余さずその腹の中に熱い白濁を放つ。抱き潰されたスフェンも、その感触と内部の熱で同時に達した。
少し長い射精の後、何度か緩く腰を揺さぶるとヴァリは体に入っていた力を抜く。お互い全身汗だくのまま一部の隙もないほどに肌を合わせると、相手の鼓動と息遣い、その全てが感じられた。息を乱しながらヴァリがスフェンの顔を覗き込むと、涙の膜が張られた薄紫色の瞳がぼんやりとこちらを見上げてくる。息整えるのも惜しくて、そのまま濡れた唇を奪った。
「はふ……んっ……」
「スフィ……ふ、う……」
二度目の絶頂に震えるスフェンは、苦しげな吐息を漏らしながらもヴァリの舌を追って懸命に口を開く。
「ごめんね、スフィ。もう少しこのまま……」
「ん…………」
中で繋がったまま、二人はひとしきり深い口付けを交わし続ける。離れる頃には、唇同士を透明な糸が伝っていた。
抜かずの二発という事もあって、スフェンはだいぶぐったりとしている。ヴァリはもうしばらくスフェンの体温に包まれていたかったが、一度中に出したものもかき出さなければならないため、惜しみながらも引き抜いた。
「抜くよ……」
「あっ……」
摩擦で肉壁が擦れてスフェンはそれにも反応した。栓が外れると、こぷりとヴァリの体液が溢れ出し、スフェンの太腿をしとどに濡らす。
「お疲れスフィ。寝ちゃう前に中のやつ出そうね」
「ん……」
薄らと目を開けたスフェンは、ヴァリの言葉を理解しているのか微妙だった。まだ茫然としているようだ。しかし、ヴァリの指が後孔に触れると、嫌がる素振りを見せた。
「どうしたの?」
「……」
スフェンは枕に半分顔を埋めたまま、視線だけが爛々と光って何かを訴えてくる。緩慢な動きで寝返りを打って横たわると、尻尾がゆらりとシーツの上で波打った。
「指は……嫌だ…………」
「……!」
控えめではあるが、それは明確に続きを強請る意図を含んだ言葉だった。一度欲を放って落ち着いていたヴァリの下半身に、再び熱が集まり始めるほどには、情欲を孕んだ誘い文句である。
「もう、二回したでしょ……っ」
「お前は一回だろ」
「でも……」
言い淀むヴァリだったが、スフェンの足先が自分の鳩尾あたりをつぅ、となぞっていった瞬間、肩を揺らして黙り込んだ。
ヴァリの顎からポタリと汗が滴り落ちる。彼の返答を急かすように、白い尻尾がぱたり、ぱたりと左右に振れた。
数秒間の沈黙の後、無言のままヴァリはスフェンをうつ伏せに寝転ばせた。スフェンは昨夜の約束を守るようにされるがまま、抵抗もなく姿勢を変えると、ヴァリの手に尻尾を絡める。その毛並みはふさふさで、手入れの成果が表れていた。
今度はほんのりと椿の香りが立つ。ヴァリは吸い付くような触り心地の肌に触れながら、再度潤んだ秘所に己を当てがった。
*
「はっっっっ…………!!!!」
目を覚ましたスフェンはバチッと音がしそうな勢いで瞼を開けた。何か、とてつもなく長い夢を見ていたような気がする。
体はややだるいが気分は良かった。連日の仕事で毎朝なんとなく調子が悪かった日が続いていたが、この日は快調である。
(あー……何だっけ……昨日休みで今日も休み……?ん?昨日……?)
妙にぼんやりとした昨夜の記憶を手繰り寄せていると、隣で眠っているヴァリが唸りながらもぞもぞと動く。起こしたかと思ったが、まだ寝ているようだ。
そこで、布団から出ている剥き出しの肩や首を見てスフェンは絶句した。ヴァリの体には、無数の噛み跡と引っ掻き傷が残っており、何も知らなければ獣(ケダモノ)に襲われた痕のようだ。
(この場合は俺が獣か……)
昨日のアレやコレやは決して夢ではない。情事の記憶が戻ってきて、スフェンは顔を真っ赤に染めた。はっきりと覚えているのはヴァリに後ろから突かれているあたりまでだ。そのあとは断片的な記憶しかない。
だが、もう出ないと弱音を吐くヴァリに対して、何度もごねてその後も付き合わせたのは曖昧に覚えている。日々溜まった疲労とストレスが爆発したのか、昨日は止め時を失うほど溺れてしまった。
「失態すぎる……」
スフェンは項垂れながら起きあがろうとすると、不意に腰へ鋭い痛みが走った。
「い"っ……!!」
濁った悲鳴を上げてスフェンはベッドへ逆戻りして倒れ込むと、その衝撃でヴァリも起きたようで、目を擦りながらのそのそと起き上がった。
「んん……おはよ、すふぃ……スフィ??」
寝起きで半覚醒状態のヴァリだったが、自分の横で悶えているスフェンを確認すると、すぐさま恋人の様子を確かめた。
「大丈夫!?」
「ぐ……自業自得だ……」
情事の間、ヴァリは常にスフェンの体を気遣ってくれたが、当のスフェンはどこ吹く風だった。それが今になって仇となっている。事後の翌日とは思えない、余韻もへったくれもない朝となった。
「起き、起き上がれ……」
「無理しないでっ、そのまま寝ててっ」
「昨日丸一日休んだから今日こそは……」
こんな状態でもゾンビーのようにベッドを這うスフェンをヴァリは慌てて取り押さえると、身動きできないよう布団で包んで横たえる。
「スフィったら、もう……」
スフェンは基本的に真面目で、ワーカホリックの気があるとヴァリも分かってはいた。しかし認識が甘かったかもしれない。今回の件で、周りが根気よく休ませなければならないのだとよく理解できた。
「とにかく、スフィは安静にしてて。家事なんてオレでもできるし。ご飯だって心配無用!……持ち帰りの仕事なんてもっての外だからね?」
「う……」
観念したスフェンは歯噛みしながらも、ベッドの上で大人しくなった。
「すまん……迷惑をかける……」
「迷惑なんて思ってないから、スフィも気にせず休んで」
ヴァリはスフェンの前髪を払って白い額に唇を押し当てた。
「それにね、オレ結構スフィのお世話するの好きだな」
「物好きめ……」
呆れたように悪態を吐く小さな唇を塞いでから、ヴァリはベッドから降りた。
「そうだ、ちゃんと歩けるようになるまでは、またオレが抱きかかえて全部してあげるね♡」
「いらん!!!」
大きな声を出すと腰に響くらしく、また言葉にならない悲鳴を上げている。
スフェンの長い休日はまだまだ終わらないようだ。