<無風の楽園>
ひんやりとした風が頬を撫でる。スフェンは助手席のシートに体を預けて、ゆっくりと過ぎていく風景を眺めた。
発達した文明を象徴するような背の高い建物。どこの街よりも綺麗に舗装された道。暗い海の底を照らし出す光。
ここは「彼」の記憶の集積。文字通りいずれ泡沫と消える水底の夢。
スフェンはこの街並みを綺麗だと感じると同時に、見ているとひどく寂しい気持ちになる。彼──エメトセルクの結末を知るがゆえの感傷かもしれない。
「大丈夫?寒くない?」
「問題ない」
運転席のヴァリがちらりとスフェンを窺う。片手でハンドルを持ち、空いた右手でスフェンの冷えた頬に触れた。
「ちょっと冷たいね」
「深海だからな。冷えてて当たり前だ。それよりちゃんと前見とけよ」
二人はレガリアに乗ってテンペストの深部、アーモロートの街を走っていた。飛行機能が搭載されているにも関わらず、あえてゆっくりと地を進んでいる。
先頃ガーロンド・アイアンワークス社によって複製された未知の乗り物を、ヴァリは存外気に入っているようだ。武器の手入れをするのと同じように時折エンジンの点検をしたり、複数人の移動の際には運転手を買って出ている。ただ、いつも仕事に用いるばかりで、こうして私用で走らせるのは初めてのことだった。
「しかしなんで急に……」
「たまにはいいでしょ、こういうのも」
スフェンが胡乱な目でヴァリを見やると、彼はハンドルを持ち直して角を曲がった。高い位置にある街頭の光が、二人の頭上を通り過ぎていく。
陽が傾き始めたくらいの時間だったか。玄関に立ったヴァリは、いつもより念入りに夕飯の仕込みをしているスフェンに対して「ちょっとドライブしない?」と声をかけた。まだ少し準備は残っていたが、今日であるならば彼の希望を優先しようとスフェンはその誘いに頷いたのだった。夕暮れのコスタ・デル・ソルあたりでも走るのかと予想していたので、レガリアを走らせる先がアーモロートだったのは予想外だったが。
カピトル議事堂、人民事務局、創造物管理局、人民弁論館、アナイダアカデミア。主要な施設の前を通り過ぎてだいたいアーモロートをぐるっと一周したあたりで、ヴァリはエンジンの設定をフライトに切り替えた。
「少し飛ぶよ。掴まってて」
浮力を感じたかと思えば、レガリアの車体は地を離れ空へと舞い上がっていた。光る塔のような建物群の間を縫うように飛ぶと、開けた屋上部分に着陸する。
「眺めがいいでしょ。ずっと車乗ってて疲れてない?ここでしばらく休憩していこ」
スフェンはレガリアから降りて大きく伸びをする。普段騎乗しているチョコボや飛龍とは勝手が違う乗り物なので、未だ体は慣れずに強張っていた。
屋上の中でも外側に張り出した場所にヴァリは腰を下ろすと、自分の横を軽く叩いてスフェンを招く。素直に応じて隣に座れば、僅かに空いた隙間を埋めるようにヴァリが距離を詰めた。もたれるように頭を彼の肩に預けると、ヴァリはより体を寄せてくっついてくる。
「いい場所でしょ。静かだし」
「ああ……」
窓に灯る明かりは星よりも眩しくて、きらきらと光っている。それだけならば、美しい光の海のようだった。
あの明かりの一つ一つが、かつてここに誰かの営みがあった証だと知らなければ。
(息苦しい)
エメトセルクを追ってテンペストに来た時は、こんな風にただ景色を眺めることはできなかった。目の前にあるものへ手を伸ばす事に必死で、押し寄せる世界の真実に圧倒されていた。それでも流されてしまわないように、自分の信念を楔のように胸に打ちつけて挑んだ。
出来損ないと呼ばれ、完璧には程遠い命だとしても、膝を突くことは自分自身が許さない。己の何に代えても、決して折れることはできなかった。託されたものが、背負ったものが、願いが、祈りが、ふらつく四肢を奮い立たせた。
無我夢中だった。言い換えれば、目の前のこと以外を気にかける余裕なんてなかったのだ。
全てが終わったあとに見渡せば、アーモロートがこんなにも壮麗で、寂寞とした場所だと今更気付いた。ここは波の音すら聞こえない。街中にあるべきざわめきもない。遺構の上に魔力で描いた都市は、静かに終わりの時を待っていた。かつてを偲ぶ思い出の幻影。エメトセルクがわざわざ膨大な魔力を注いで作った場所。スフェンからすれば、それは愛の深さそのものであった。
帰る故郷も、会いたい人も、もういない。それはどんな世界だろう。そうなってしまったら自分ならどうするか。そこで生きるのはどれほどの──。
スフェンが思考の海に落ちかけたとき、左手に少しかさついた手が触れた。ヴァリの手のひらだ。体を支えるため後ろに突いたスフェンの手に、彼は指の腹の皮が厚くなった手を重ねて握った。
「スフィの手冷たいなって思ったけど、俺の手も結構冷たかったね。温めようと思ったんだけどなあ」
そう言ってヴァリは苦笑した。
(そういえば、あの時の手も……)
エメトセルクとの決戦で、無光の暗闇の中に落ちたとき。伸ばした指が確かに誰かの手に触れた。何も見えなかったけれど、スフェンにはそれがヴァリの手だとの確信があった。
例え目には見えなくても、きっとそこには皆がいる。ヴァリがいる。そう思えたら不思議と恐れはなかった。
ここであった出来事に想いを馳せていると、ヴァリが首元に擦り寄ってきたので、スフェンは現実に引き戻された。
「ん?スフィなんか甘い匂いするね」
鼻先を髪や耳元に埋めながら話されると擽ったい。それでもスフェンはヴァリの好きにさせた。
「……ケーキ焼いてたからな」
今日のために数日前から食材を買い込んで、あれやこれやと準備はしてある。家に帰ったら、食卓に並ぶご馳走にヴァリは驚くだろうか。
「ケーキ?今日なんかあったっけ?」
「お前……今日なんの日か分かってて出かけたいって言ったんじゃないのか?」
「?」
ヴァリの顔をまじまじと見つめたが、彼は本当に今日が何の日か分からないらしい。普段はよくそんな細かい事まで記憶していられると呆れるほど他人のことには敏いくせに、自分が絡むとまるでポンコツだ。
ここまで綺麗に忘れていると、何も言う気がしなかった。
(まあいいか……)
何だか色々考えていた気もするが、今は横に置いてもいいと思えてくる。
「ごめん、オレなにか忘れてる?」
ヴァリが捨てられた犬のような表情で聞いてくるのが妙に可笑しくて、スフェンはあやすように顔を引き寄せて柔らかく口付けた。
「別に。いいだろ、何でもない日に少し贅沢したって。さ、そろそろ家に帰るぞ」
もう息苦しくはない。帰るべき場所がスフェンにはある。
昏く冷たい海の底にいても、彼は家路を見失わない。
*
嬉しそうに話すヴァリに相槌を打ちながら、仲間達は機を窺っていた。
「忙しいかもしれないし、断られるかなあって思ったけど、誘ってよかった〜」
「ヴァリ君、ドライブ楽しかったんだね」
「よかったじゃん」
「うん。しかもスフェンなんか優しいし、夜はご馳走だったしでいい一日だったなあ」
昨日スフェンを誘ってレガリアでドライブに行ったと語るヴァリに、ハンナとソバはうんうんと頷いた。それぞれ懐やソファの裏に隠した贈り物を気にかけながら。
(え!?すーさんってばヴァリ君のお誕生日だって言わなかったの!?)
(すーさんが言わなかったのに俺らからとか切り出しづらいわ)
内心焦る二人。それは他のメンバーも同じで、会話を遠巻きに聞いていたエドヴァルド達も互いに目配せした。
(スフェンがヴァリの誕生日だって言わなかったせいでプレゼント渡しづらくなったけど!?)
彼らの目論見では、誕生日当日を二人で祝ってもらった翌日に自分達も贈り物を渡すというシナリオを想定していた。
エドヴァルドがちらりと横に立つミナミに助言を求めるように視線を向けると、彼女は徐に立ち上がる。
「致し方ありませんね……」
その手には綺麗に包装された包みがあった。つまりは、正面からの特攻である。
「すーさんには申し訳ないですが、ヴァリさんからのお小言は甘んじて受けてもらいましょう」
なんで誕生日だと言ってくれなかったのだと、スフェンがヴァリから言われるのは百も承知。淑女の顔にはそのように書かれていた。