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<1.Variety(宝石名)>


 陽光が柔らかに降り注ぐ。春を迎えたザナラーンは、乾いた大地に幾ばくかの緑を茂らせている。澄んだ水色が広がる空の下では、空気さえも緩んでいるようだった。一年のうちでも比較的過ごしやすい気候に、街行く人々の表情も明るい。
 一方で、花籠を携えてゴブレットビュートの石畳を歩くヒューランの少女は、どんよりと溜息を吐いた。暗い顔の原因は、中途半端に余った売れ残りの花達にある。
「頑張るのよマリー……これを売り切らないと今日のご飯代が足らないんだから……」
 彼女は自分を鼓舞するように呟くと、あかぎれだらけの手で頬を叩いた。その拍子に、きつく編み込んだ煤けた茶色の髪が跳ねるように揺れる。
 マリーはウルダハの貧民街で生まれた。母親はマリーを生んで間もなく流行り病で亡くなり、同じようにスラムで暮らす大人達に代わるがわる面倒を見てもらいながら今日まで生きてきた。齢一桁で仕事を始め、十五歳になる今日まで屑拾いから荷物の配達、子守りに靴磨き、皿洗い……悪事以外は何でもやった。
 稼ぎが悪いときは物乞いをしたこともある。それも雀の涙ほどの収入にしかならなかったが、本当に厳しいときは例え一ギルの施しですら地面に額を擦りつけて感謝した。
 働いても、働いても、働いても、貧乏がマリーを追い立てる。砂漠に浮かぶ富の都で、彼女は毎日貧しさに喘ぎながら仕事をしていた。
(今月の『家賃』と食費と……最近服が窮屈だけど、こっちはもうしばらく我慢かな……)
 履き潰した粗末な靴は成長期の足をぎゅうぎゅう絞めつける。それでも、衣食住のうち「衣」はいつも後回しだ。なんだったら「食」だって「住」に比べたら優先度は低い。スラムを牛耳る大人達が、『家賃』と称して取り立てる金の確保が最優先だった。それが払えなければスラムを追い出されてしまう。
 人通りの少ない一角を占拠するかたちで、皮と布の継ぎはぎを張っただけの天幕が犇めき合う貧民街。その天幕のうちの一つにマリーは住んでいる。お世辞にも家とは呼べなかったけれど、それでも彼女にとっては雨風を凌げる唯一の場所だった。ここを追い出されたら荒野に出て暮らすしか少女に道はない。いっそのこと、街の外郭に住んでいる難民のキャンプにでも紛れ込もうかと考えた事もあったが、マリーの小さな矜持はそれを拒んだ。
 都市の中に住んでいる。それは砂嵐や魔物に襲われずに、たくさんの人々が暮らす街の中に居場所があるということ。外と中。そのどちらに居場所があるか。その日食べる物にも困っている彼女にとって、その事実はちんけな見栄のようなものだった。
 その見栄のために、マリーは今日も朝から晩まで働く。早朝の配達を終えて、今は昼の花売り、夜には商店の下働き。それを終えてようやく食事にありつける。だが、それもまずは手持ちの商品を売りさばかなければ話にならない。
 高級な花はないけれど、朝のうちに街の外へ出ておっかなびっくりしながら摘んできた花は瑞々しく、サファイアアベニューでの売れ行きもぼちぼちだった。しかし、正午を過ぎたあたりから客足はまばらになっていった。今日は夜市が立つので、皆そちらで金を使うつもりなのかもしれない。
 ウルダハの通りではそれ以上粘っても成果は見込めなさそうだったので、マリーは急遽ナル回廊を通って、冒険者居住区へと足を伸ばした。ここはその名の通り冒険者達が暮らすエリアで、土地と家を持つことからそれなりに資産を持つ者が多く暮らしているのを彼女は知っている。家の内装に凝る者も中にはいるのだとか。なので「食卓に飾るお花はいかが?」、なんて売り文句で家を訪問して回って花を買ってもらう作戦だった。……が、彼女の目論見は脆くも崩れ去ろうとしている。
「ぜんっぜん人がいないじゃない……!」
 方々を歩き回った末、マリーはそう言って静かに地団太を踏んだ。昼時を過ぎたゴブレットビュートには長閑な空気が流れるばかりで、冒険者達の姿はない。いくつか家を訪ねたが、留守の家ばかりだった。
 ここの冒険者達は独り者や、同じ冒険者仲間と暮らしている者がほとんどだ。ならば当然昼の間はギルドの依頼などで出払っているのだが、彼女には知る由もなかった。
「はあ……当てが外れちゃった」
 夜の仕事まではまだもう少し時間はあったが、広い区画を歩き回ったせいで疲れてしまった。もう何軒か回ったら、いったん休憩しよう。
「お腹空いた……」
 栄養の足りない身体は、街に住む同年代の少女と比べてとても貧相だ。痩せてばかりで肉がついていない。髪はぱさぱさで、肌だって乾いている。けれど腹ばかりは一丁前に空くのだからどうしようもない。花がすべて売れれば、固いパンと安い果物が少し買える。それを今日の昼と夜の食事に当てたいのだが、いささか望み薄だった。
 住む場所が変わっていないのに、何かと理由をつけて『家賃』が少しずつ上がっていく。来年くらいになったら、もう今の仕事だけでは払えないかもしれない。いよいよ自分も年長の女達のように、夜の街で男に春を売らなければならないのか。そんな考えがマリーの思考を暗く濁した。
 そのとき、彼女の鼻腔を香ばしい匂いが刺激する。焼きたてのパンのような、育ち盛りの食欲をくすぐって仕方がない香りだ。その香りに釣られて、彼女はふらふらとプールサイドまで引き寄せられた。
 ゴブレットビュートの中央には温水プール施設があり、砂漠の中に突如現れたオアシスのように美しく涼やかな様相のエリアだ。それゆえ居住区の中でも人気があり、土地の相場が他よりも高く、特に資産家の冒険者が好んで住んでいる。心なしか家々の外観も手入れが行き届いて整っているような気がした。
 ここに足を踏み入れるのは少し躊躇する。小綺麗な格好をしているとは言い難い、垢だらけの小娘には敷居が高い場所だった。
「うう……でもいい匂い……」
 匂いの元を辿ると、滝の近くにある家からだった。近寄って見ると、ちょうど玄関から人が出てきて、ティーポットやら皿を庭のテーブルにセットしているところだ。どうやら家主は若いミコッテ族の青年らしい。
 春のきらきらとした日差しの下、白い髪が光って銀色のようにも見える。澄み切った水色の空に、欠けのない真新しそうな食器と、糊のきいた真っ白なシャツ、汚れのない白い屋根瓦。マリーはしばらくの間、その光景にぼんやりと見入っていた。
 しかし不躾に眺めすぎてしまったのだろう。立ち尽くしていると、視線に気付いた家主の淡い瞳と目が合ってしまった。
(やばっ)
 何を見ているんだ、と怒られたりしないだろうか。声もかけずじろじろと見ていたため、些か決まりが悪かった。マリーはそれを誤魔化すように、緊張で引きつりそうになる表情筋を無理やり動かして微笑んだ。
「こ、こんにちは!いいお天気ですね!」
「ああ、そうだな」
 青年の声に怒気は感じられなかったが、返答は少し素っ気なかった。
「あのっ、よかったらお花いりませんかっ」
 自分は善良な花売りです、敵意はありません、怪しい者ではありません、とアピールするように花籠を掲げた。青年は花に興味があるようなタイプには見えなかったので、いらないと言われたらこれ幸いと退散するつもりである。だが、彼の返答は意外なものだった。
「じゃあ、そこにあるの全部くれ」
「へ?」
 青年は表情を変えずにマリーの花籠に入った売れ残りを指さした。
「ぜ、全部ですか?」
「ああ。引っ越したばかりで家の中がガランとしてるから、花でもあったら少しはマシになると思ってたところだ。幸い一人暮らしで、花瓶を置くスペースも余りまくってる」
 青年は顎で家を指すと財布を取り出した。
「これで足りるか?」
 彼は家の囲い越しに立つマリーの手にギルを握らせて小首を傾げた。何の変哲もない花を求めるには、少しばかり硬貨の枚数が多い。
「これじゃ多いです。これとこれはお返しします」
 花を渡すついでに何枚かのギル硬貨を青年の手に戻すと、そんなものかと彼は納得して金を財布に戻した。
「よくこの辺で花を売ってるのか?」
「いえ、いつもはマーケットの方で売り歩いてるんですが、今日はあんまり売れなくて……。でも、お兄さんが買ってくれたので助かっちゃいました」
 緊張していたマリーだったが、とりあえず青年が怖い人物ではないと分かると、商品がいっきに捌けた嬉しさもあって張り詰めていた糸が緩むように微笑んだ。その一方で、忘れていた空腹の虫が騒ぎ出し、はっきりと周りに聞こえるほど大きな音で腹が鳴った。
「あ、あはは、お昼まだだったから……」
 マリーは恥ずかしさを隠すように目を泳がせながら笑った。年頃の娘としては、若い男性に腹の音を聞かれるなんて顔から火が出るような思いである。
 すると、青年は思案するように彼女を眺めてから、また表情を変えずに口を開いた。
「……このあと、少し時間あるか?」
「え、あ、次のお店の手伝いに行くまでは、多少……」
 しどろもどろ答えると、彼は庭に入るように手のひらの動きでマリーを招いた。
「昼食を作ったんだが、少し作り過ぎた。俺一人じゃ残すだけだから、食べていけ」
「いいんですか……⁉」
 思わず前のめりになって一歩踏み出したマリーだったが、家の門を潜る手前で、ここがウルダハの膝元であることを思い出した。益には対価がつきもの。それが商人の都、ウルダハの鉄則だった。そんな場所で、タダほど怖いものはない。
「あの、私お金持ってないので……」
「は?」
 払える対価がない。そう言って断ろうとすると、今までピクリともしなかった青年の表情が初めて曇った。
「金なんか必要ないし、俺はお前に何も要求しない。だから気にせず食ってけ」
 青年は庭に置かれた丸椅子に向かって、早く座れとマリーを促す。だが、そう言って他人を騙す人間をたくさん見てきたマリーは、この提案をすぐには受け入れられなかった。
「……まあ、無理にとは言わない」
 戸惑うマリー相手に、青年は無理強いしなかった。彼女を置いてテーブルに着くと、ティーポットからお茶を注いで食事の支度を再開した。
 紅茶の香りがふわりと広がる。マリーが焼きたてのパンのようだと思った匂いの正体はスコーンだった。小瓶に入ったジャムやマーマレード。ハムやキュウリの詰まったサンドイッチがその隣に置かれている。
 並べられた料理を見ているだけで涎が溢れてきた。一度断った手前、早くこの場を去らなければと思うのだが、人生で一度も口にしたことがないものばかりが並ぶテーブルを前に、マリーの足は錆びついてしまったかのように動かない。
 青年は紅茶の注がれたカップに口をつけてその様子を横目に眺めると、再びマリーに向き直って条件を出してきた。
「じゃあ、こうしよう。俺の仕事をちょっと手伝ってくれ。その代わり、ここで飯を食べていく。それならどうだ?」
「仕事の手伝い……?」
「ああ。最近革細工の手仕事を始めて色々作っているんだが、何せ初めて作る物ばかりで……だから作った物の試着やらを頼みたい。今回作ったのは子供用と女性用だから、作ったはいいが自分で試すわけにもいかなくてな」
 青年の提案にマリーは目をぱちくりと瞬かせた。
「それって仕事の手伝いとは言わないんじゃ……」
「そんな事はない。お前の時間を使ってやってもらうんだからな」
 これも立派な労働だ、と青年は尻尾を揺らして言い切った。
「で、やるのか?」
 食卓と青年の顔を見比べて、とうとうマリーは頷いた。
「なら早くここに座れ。冷めるぞ」
 彼はマリーの分もカップを用意すると、自分の向かいの席に置いた。それを合図に彼女がおずおずと椅子に座ってカップに口をつけると、温かい紅茶の風味が鼻を抜けていく。
「……!」
「もともと家族と暮らしていたせいで、いつも料理を作り過ぎるんだ……。そろそろ慣れないととは思って量を減らしているんだが、一人前を作るのって難しいんだよな」
 残すのは勿体ないからと、青年はマリーの分の料理を皿に取って次々彼女の前に並べていく。具材のたくさん挟まったサンドイッチは柔らかく、頬張ると食べたこともない味がした。いつも食べている固いパンにはない甘みが、口いっぱいに広がっていく。
「美味いか?」
「はいっ、んぐっ、美味しいですっ」
「そうか」
 夢中で口に詰め込むマリーを見て、青年はほんの少しだけ目を細めて頬を和らげた。固い花の蕾が、春の陽気に綻ぶような笑顔だった。
「たくさん食え」
 青年の表情はすぐ元の顔に戻ってしまって、ひょっとして目の錯覚かとマリーは自身の目を擦った。しかし、何度瞬いても彼は固い表情でスコーンを齧っている。
「……えっと、いいお宅ですね」
 もう一度彼の表情が変わるのを見てみたくて、マリーはいつもより饒舌に喋った。
「お家は綺麗だし、お庭も広いし、オアシスプールのすぐ近くで、この辺りでも一等地なんじゃないですか」
 そう言うと、青年は何てことないように、ちょっとしたコネだとマリーに語った。
「都市内で暗躍していたとある犯罪組織の摘発に協力してな。まあ、なりゆきでそうなっただけだが……それで砂蠍衆の一人に貸しができて、土地を融通してもらった」
 さらっと凄い話が聞こえた気がする。犯罪組織の摘発、砂蠍衆に貸し。マリーからすればあまりに現実味のない話だった。
「す、すごいですね……」
「そうか?」
 大した事はないと彼が言うものだからつい流されそうになったが、冒険者稼業がどんなものか知らないマリーでも、流石にそれは大それた事だと分かった。しかし、彼には興味のない話題らしく、黙々とサンドイッチを口に運んでいる。
 青年と話したくて雑談を切り出したものの、話のスケールが大きすぎて圧倒されてしまったマリーは、彼に倣ってしばらくの間は食事に舌鼓を打つことだけに集中した。きっと青年にとっては日常のありふれた食卓なのかもしれない。けれど、彼女にとっては一生に一度かもしれない贅沢な食事だ。それもあって、結局テーブルの皿が全部空になるまで食べてしまった。
 温かな風がそよぐ、麗らかな昼下がり。こんなにも穏やかな時間を過ごすのはいつぶりだろう。


 食後に片付け始めた青年を手伝おうとマリーが立ち上がると、そこで待っていろと制される。しばらくすると、革製の手袋や鞄、靴などを持った彼が戻って来た。
「冒険者用の装備じゃなくて、家庭向けの商店に卸すものだ。使用感を聞かせてほしい」
 華やかさはあまりなく、素朴な作りの品ばかりだ。高そうな物が出てきたらどうしようと考えていたマリーはほっと胸を撫でおろした。
 革細工を始めたばかりと言うのは本当らしく、大きさが少々不揃いだったが、手に取ってみると縫い目やなめしがとても丁寧であることが分かる。店に並べば必ず売れることだろう。
 青年に言われたとおり、手袋をはめて物を掴んだり、鞄を肩にかけて物を入れてみたり、一通り試してみた。使ってみて気になった点をいくつか伝えると、彼は神妙な顔つきでメモをとる。次回作る際は、これを参考にして改善するようだ。
「靴も試してくれ」
「は、はい」
 意図的に避けていたわけではないが、靴の試着は最後になってしまった。しかしやはり、履き潰して薄汚れた靴を見られたくはないという気持ちがこみ上げる。マリーは青年に対して隠すように背を向け履き替えると、脇に置いた花籠の影に脱いだ靴を揃えた。
「履き心地はどうだ?」
「新しいので少し固いですが……よくなめしてあるので、履いてれば足に馴染んで柔らかくなると思います。あと全体のサイズに対して、つま先の部分のゆとりが広い気がします」
「ん、ちょっと大きかったか」
「でもこれくらいなら問題ないと思いますよ。子供向けの靴なら特に。足なんてすぐ大きくなりますし」
 大きくなりすぎて困っているくらいだ。その言葉を何とか飲み込んで、マリーは庭を歩いたり、つま先を曲げたりして見せた。
「だいたい分かった。ありがとう」
「いいえ、こんな事でお役に立てたのなら……」
 実際手伝いと呼べるほどの事はしていない。大した仕事もしていないのにあんな豪華な食事をいただいてしまって、逆に罪悪感を抱いたくらいだ。
 久々に窮屈さを感じない靴を履いてしまったので、もとの靴に履き替えるのが憂鬱だった。思っていた以上に自分はストレスを感じていたらしい。
「あ、それからその靴は戻さなくていい。よければそのまま履いていけ」
 青年がメモを書き込みながら放った言葉に、靴を脱ごうとしていたマリーはギクリと固まった。あの汚らしい靴を見られたから?哀れに思われた?それとも物欲しそうな顔をしていただろうか。
「え……何でですか?いただく理由がありません……」
 羞恥に声が震えそうだ。思わず煤けたスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
「その靴なんだが……」
 マリーは緊張した面持ちで青年の言葉を待った。かけられるのは憐憫だろうか。あるいは嘲りか。今までたくさん心ない言葉を受けてきたから、そんなものには慣れている。
だが、彼の口からはそのどちらも出てこなかった。
「今気づいたんだが……その靴だけ、他のものについている飾りの金具が足りない。もう材料がないから付け足すのも手間だし、流石に形の違うものは納品できないからな。分解するのも面倒だ。だから貰ってけ」
 余分に作ってあるから数の心配はするなと青年は言うと、またさして気にも留めていない様子で並べた品をまとめ始めた。
「本当に貰っていいんですか……?」
「ああ。俺が持っていても仕方がない。この後も仕事あるんだろ?引き留めて悪かったな」
 後片付けはいいから早く行けと青年はマリーを送り出した。しかし、こうも貰いっぱなしでは気が引けるといもの。
「せめて何かお礼を……」
「あー……じゃあ思い出したときでいいから、花を売りに来てくれ。それでいい」
 少し傾いてきた春の陽が青年の白い顔を照らす。そんな事じゃお礼にならないという台詞は、ほんのりと微笑んでいる彼を前にして、口の中で溶けて消えた。
 何を言っても無粋でしかない。マリーはそう思った。


 古い靴を花籠に放り込んで門を潜ったとき、家の前に掛ったサインボードが目に留まった。マリーは字の読み書きができない。故にそこへ書かれた文字の羅列が青年の名前であると知りつつも、どんな音で彼を呼べばいいのか分からなかった。
(あ!そもそも私も名乗っていないわ!)
 今更ながらそれに気付いて、彼女は弾かれたように振り返った。
「私、マリーって言います。あの、お名前を教えてくださいっ」
 青年はマリーを見据えると、低いけれど柔らかい声で答えた。
「スフェン。スフェン・ナクシャトラ」
「スフェンさん……」
 大切なものを握り締めるようにその名を呼ぶ。
 偶然にも、それが輝石の名前であることをマリーは知っていた。ウルダハに留まらず、エオルゼア全土にその名が知られる宝飾品店、『エシュテム』。その店先で指輪を買っていた客と店員のやり取りを遠目に見ていたとき、その名を聞いた。
 裕福そうな女性の華奢な指に嵌る、鮮やかな黄色にも黄緑にも見える宝石。きっと近くで覗き込んだら、きらきらと眩いばかりに光っているのだろう。素敵だな、と思わず呟いたことを覚えている。
 以来、恋焦がれるような気持ちでザル回廊の店先を時折遠くから眺めていた。彼がその宝石と同じ名前だなんて、とても運命的だ。
「スフェンさん、ご飯と靴、ありがとうございました」
 マリーが深々とお辞儀をすると、彼は少し照れくさそうに軽く手を振った。



 まるで夢を見ていた気分だった。夜の仕事を終えてから薄い掛布団に潜り込んで、マリーはその日あった出来事を思い返す。
 美味しい昼食に、温かく光る春の庭。真新しい革靴と、美しく輝く宝石の名を持つひと。
(今度尋ねるときは、もっと良い花を持っていこう。やっぱり白がいいかな)
 寝返りを打ちながらマリーは微笑んだ。その日は空腹も、貧しさも、彼女を苛むすべてを忘れて眠りについた。明日からの人生はもっと良いものになりそうだ、根拠もなくそんな気がして、胸が弾んだ。


 しかし、なんとマリーの予感は現実になった。その月は何故か『家賃』の集金がなかったうえ、翌月もその翌月も、彼女から搾取を続けた大人達と顔を合わせることすらなかったのである。